■雪峰(せつほう)習田先生碑
江戸時代の教育というと、みなさんはどういうものを思い起こされるでしょうか。テレビの時代劇で出てくるような寺子屋の様子が目に浮かぶことでしょう。近年の研究では地方にも寺子屋や私塾が存在しており、子供たちに読み書きを教えていたため、市民の識字率が高かったことが考えられています。
江戸時代の朝来市域にも数名、私塾を開いていた教育者がいたことが分かっています。その内の一人の存在を示すのが和田山町竹田の法樹寺(ほうじゅじ)境内に建てられた「雪峰(せつほう)習田先生碑」です。習田雪峰は幕末~明治期に私塾・虎渓書院(こけいしょいん)を開いた儒学・漢学者です。法樹寺にある石碑は雪峰の死後、彼の教え子だった人々がその業績を讃(たた)えるために建てた石碑です。碑文は漢文で書かれており、それを要約すると次のようになります。
習田雪峰は文政十年(1827)朝来郡竹田村の商家の生まれです。苗字は習田。名前は篤。雪峰は雅号(がごう)(文人が名乗る別名)です。雪峰は幼少から優秀で、二十歳で丹波の小島省斎(こじましょうさい)の下で学びました。次いで江戸の昌平校(しょうへいこう)(幕府直営の学問所)に入門し、その後、大阪の藤沢東がい(ふじさわとうがい)に学び、さらに肥後(熊本)の月田蒙斎(つきだもうさい)にも学んだあと、文久元年(1861)に帰郷して私塾・虎渓書院を開いて生徒を教えました。文久三年(1863)、生野の変に雪峰も参加しましたが失敗。役人に追われますがうまく逃げることができ、私塾を続けました。明治八年(1875)に雪峰は豊岡県第五大区(朝来郡)長に就任しました。学問・農業の奨励など住民の生活の安定を図ろうとしました。成果が上がりかけていましたが、上司としばしば意見が合わず、そのため辞職し、虎渓書院を再開して生徒を教える生活に戻りました。その後、京都に転居し、知恩院(ちおんいん)の学寮(僧侶が学問を学ぶ場所)に招かれて漢学を教えました。明治三十八年(1905)に七十九歳で死去し、京都の高台寺墓地に葬られました。雪峰の性格は厳格で、人との交際は慎重。勝海舟に敬服しており、海舟もまた雪峰を厚遇し「雪峰は飾り気がなく、古人の風格がある」と評しました。
雪峰が開いた虎渓書院がどこに所在したかは不明です。雪峰が学んだ小島省斎、藤沢東がい、月田蒙斎はいずれも当時著名な儒学者で、私塾・藩校教育にたずさわった人物です。東は江戸から西は熊本までおもむく雪峰の勉学への熱意が伝わってきます。雪峰は勝海舟と親交がありましたが、いつ頃どこで知り合ったかまでは記されていません。この石碑の題は当時、枢密院(すうみついん)(天皇の最高諮問機関(さいこうしもんきかん))の顧問官だった北垣国道(きたがきくにみち)が書いています。国道は生野の変に参加した人物であり、その縁で引き受けたとも考えられます。
江戸時代に寺子屋や私塾の師匠が亡くなった際には、弟子や教え子たちが師匠を讃える記念碑を寺院の境内などに建てる風習がありました。こうした石碑は当時の教育の様子を知ることができる貴重な資料の一つです。これからも大切に残していくことが大事です。
※「藤沢東がい」の「がい」は環境依存文字のため、かなに置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
問い合わせ先:文化財課
【電話】670-7330【Eメール】bunkazai@city.asago.lg.jp
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