文字サイズ
自治体の皆さまへ

我がまち朝来 再発見(第195回)

20/33

兵庫県朝来市

■生野鉱山の近代化を目の当たりにした広瀬宰平(ひろせさいへい)
江戸時代末期には鉱山経営が成り立たなくなっていたと伝わる生野鉱山では、幕末の世相の混乱による物価高騰により、鉱石が蔵にあっても採算があわず製錬ができない、鉱夫に与える米がない、坑道内が湧き水であふれた状態になっていたと伝わっています。明治時代に入ると、政府が雇ったフランス人鉱山技師フランシス・コワニェら「お雇い外国人」の手による大型機械の導入や、火薬を使った採掘方法の改革が進められ、国内初の近代化に成功し、経営再建を果たしました。
全国に先駆けて近代化を進めた生野では、コワニェの提案により鉱山学校が開校されました。コワニェ自ら教鞭(きょうべん)を執り、全国から有志を募って、座学はもちろんのこと生野鉱山での実地指導も行われました。そこで学んだ生徒たちは、その技術を郷里の鉱山へ持ち帰り近代化を進めることで全国の鉱山もまた行き詰っていた経営を立ちなおすことができ、新政府の財政基盤を支えたり、一鉱山経営者から財閥へと成長するきっかけとなるなど、明治の経済発展に大いに貢献しました。
このコワニェの鉱山学校で学んだ人物として愛媛県の別子銅山の開発に成功し、のちの住友財閥で総理人となった広瀬宰平(ひろせさいへい)(1828-1914)がいます。広瀬宰平は9歳の時に叔父が勤務していた別子銅山で働き始め、慶応元年(1865)38歳の時には別子銅山の支配人となっていました。明治元年(1868)には新政府にその力量を認められ、生野鉱山や伊豆金山での視察を命ぜられ、生野鉱山では先述のコワニェの鉱山学校で近代的採掘法を教わり、別子にも西洋技術を導入すべきと考えたようです。明治6年(1873)には生野と同じようにフランス人技師ラロックを雇い入れて別子銅山の開発計画を作らせ、また別子からもフランスの鉱山学校へ留学させ西洋技術の導入に取り組みました。生野では水力利用のために鷹巣堰堤(たかのすえんてい)から水路を鉱山本部へ引きましたが、別子では鉱山排水処理のために小足谷疏水(こあしたにそすい)の水路建設や、物資運搬のためのトンネル開削を導入した火薬を使用して進めました。広瀬はこうして生野鉱山での学びを活かし、別子銅山の発展に尽くしました。その後住友財閥の総理人として、鉱山経営以外の分野も含めた多岐にわたる事業経営に携わりました。
2月10日(土)、13時30分からあさご・ささゆりホールにおいて、生野鉱山活用講演会「金・銀・銅がつなぐ鉱山町の未来」と題した講演会を開催いたします。講演会では、生野銀山とともに近世以降の日本の経済を支えてきた佐渡金山、別子銅山での現在の調査研究や保存整備の取り組み、活用の考え方、先進事例などを紹介していただきます。入場は無料ですのでどうぞお越しください。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU