■大蔵(おおくら)神社と片倉製糸工場
和田山駅から南へ300mほど進んだ朝来市役所本庁舎の裏手に大蔵神社があります。拝殿(はいでん)の後ろに塀に囲まれた本殿(ほんでん)があり、塀のためはっきりしませんが本殿の様式は入母屋造(いりもやづくり)を小型化したものに思われます。境内には末社(まつしゃ)の金和稲荷(かなわいなり)が祀られており、他に大正~昭和後期まで和田山駅前にあった広大な製糸工場を記念した『製糸工場跡』の石碑があります。大蔵神社がいつ頃現在の場所に移されたか、和田山町史と境内にある縁起、製糸工場跡石碑の記述で食い違いが見られます。
大蔵神社の主な祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)であることから、大蔵神社は『諏訪神社(すわじんじゃ)』であることがわかります。諏訪神社は長野県にある諏訪大社が総本社で、諏訪湖周辺にある4つの神社を指します。
大蔵神社の建立時期は市内の他の神社と比べて新しいものですが、その来歴はユニークなものです。江戸時代から但馬は養蚕(ようさん)が盛んな地域でしたが、明治時代になり、生糸が外国への主要な輸出品の一つとなったことから、日本各地の養蚕地域で製糸工場が建設され、生糸の増産が始まりました。そうした時代背景の中、大正6年、和田山駅前に小口組(おぐちぐみ)製糸が製糸工場を建設し、操業を開始しました。その際、小口組製糸が長野県の諏訪大社を勧請(かんじょう)して工場の鎮守として敷地内に祀ったのが、現在の大蔵神社の始まりです。大正末期から昭和初期の経済不況で小口組製糸が経営破綻し、工場は昭和6年に日東製糸(にっとうせいし)株式会社に移譲されました。次いで、昭和11年に片倉製糸(かたくらせいし)紡績(ぼうせき)株式会社に移譲されます。その片倉製糸も工場敷地内の諏訪神社を鎮守として引き続き祀りました。戦後、工場が閉鎖された後、和田山駅前区民により工場内の諏訪神社を現在地に遷宮(せんぐう)し、神社名も当時の大蔵村にちなんで大蔵神社と改名されました。
ではなぜ小口組製糸は、日本に数多くある神社の中から、諏訪大社を工場の鎮守として勧請したのでしょうか。それは小口組製糸の創業地に由来すると考えられます。小口組は長野県の岡谷(現・岡谷市)を本拠地とした製糸会社です。岡谷は諏訪湖に面した土地で、諏訪大社の『御膝下(おひざもと)』であり、小口組製糸が諏訪大社を勧請するのは自然な流れだったのでしょう。
では昭和11年に工場を引き継いだ片倉製糸はどうでしょうか。当時、片倉製糸の本社は東京にありました。しかし片倉製糸の創業地も、長野県の諏訪湖の東側にある諏訪郡川岸村(現・岡谷市)で、同じく諏訪大社の『御膝下』です。そうした縁から片倉製糸も工場内の諏訪神社を引き継いで祀ったのでしょう。
今は長野県とのゆかりはなくなってしまいましたが、今度は地域経済をささえた製糸業の縁から、大蔵神社が現在の場所に祀られています。かつて和田山駅前に存在した片倉製糸工場のなごりを残す大蔵神社を祭神から見てみると、片倉製糸工場がたどった歴史や工場を経営した会社の歴史が垣間見えてきます。
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