■山東の義民 松岡新右衛門
江戸時代、幕府による年貢の徴収は時に苛烈を極めました。凶作時でも収める年貢高が下げられることは稀で、いよいよ生活ができなくなった農民が起こす、幕府や代官所への決死の抵抗を「百姓一揆」と呼びます。百姓一揆と聞くと「農民が代官所などを襲う暴力行為」を思い浮かべますが、この行為は「打ちこわし」と呼ばれます。ほかにも所定の手続きを踏んで合法的に行われる嘆願「愁訴(しゅうそ)」、代官所での手続きを飛ばして江戸の奉行所等へ訴える「越訴(おっそ)(箱訴(はこそ)、駕籠訴(かごそ))」、集団の力で強引に訴訟を起こす「強訴(ごうそ)」などがあります。
山東町誌によると、元和7年(1621)から慶応2年(1866)までの245年間に、但馬で46件、そのうち朝来市内で30件の百姓一揆が起こっています。今回はその中から、今もなお義民として語り継がれる松岡新右衛門による訴訟「享保一揆」を紹介します。
享保年間は全国的に大飢饉が発生し、8代将軍徳川吉宗によって、享保の改革が行われた時代です。但馬でも享保5年(1720)から数年間、ひどい凶作に悩まされ、特に享保9年(1724)には過去に類を見ないほどの飢饉(ききん)に見舞われました。旧山東町の村々では年貢が払えず、これ以上は持ちこたえることはできないと、楽音寺村の代表であった松岡新右衛門は周辺の村代表とともに、生野代官所に出頭して年貢の軽減を嘆願しました。しかし、時の代官飯塚孫次郎が江戸にあり不在とのことで取り合ってもらえず、江戸へ愁訴に向かうことを決意します。
江戸に出府した新右衛門でしたが、代官にも取り合ってもらえず、勘定奉行にも相手にされず、何度も代官と奉行を往復し、享保9年12月、やっとの思いで奉行寄り合いに呼び出されたものの、訴状や書面の吟味もないままに縄をかけられ牢に入れられてしまいます。その日暮れ、奉行から「年貢については相応の減額があるから帰国するように」と沙汰があり牢から解放、帰途についたのでした。
翌年3月にようやく届いた本免状には年貢の減免など全く書かれておらず、それどころかより厳しい取り立てを行う旨が記載されていました。ついに怒りが頂点に達した周辺数ヶ村の農民たちは、強訴に踏み切る決断をします。強訴は大罪であり、村民を罪人にするわけにはいかない新右衛門は再び、ひとり江戸へ越訴に行くことを決心します。享保10年(1725)5月、目安箱へ訴状を投函する「箱訴」によって幕府への直訴を果たします。当時の江戸町奉行大岡越前守忠相によって新右衛門の直訴は聞き届けられ、但馬地域の年貢が引き下げられました。一方、新右衛門は越訴の罪を問われて八丈島へ流罪となりました。目安箱によって民の声を政治に反映することに努めた吉宗でしたが、新右衛門による箱訴は許される条件を満たしてはいませんでした。
八丈島へと流され38年の月日が流れた宝暦12年(1762)8月、ついに罪が許されましたが、赦免状が八丈島へ届く1月前の9月に新右衛門は亡くなっていたのでした。後世、楽音寺境内に彼の遺徳を称えた石碑が建立され、今もなお、義民松岡新右衛門の功績を私たちに伝えています。
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