■月夜の伝説 源太夫(げんだゆう)とタヌキの相撲勝負
まだまだ暑い日が続きますが、暦の上では9月、秋の入口に差し掛かっています。
「中秋の名月」とは、旧暦の8月15日(十五夜)にお月見をする習わしのことを言います。旧暦における秋は7~9月、その真ん中にあたる8月15日を「中秋」と呼び、その日の美しい月は「中秋の名月」と呼ばれるようになりました。現在の暦に直すと、今年の「中秋の名月」は9月17日(火)になります。
今回は、山東町迫間に伝わる、そんな9月の月夜の伝説をご紹介します。
江戸時代の中頃、迫間に西岡源太夫という祈祷師(きとうし)がいました。本村に祈祷に行こうとした源太夫は、途中、二十歳くらいの若者に出くわします。源太夫も大きな人でしたが、若者はそれ以上の大男でした。道端に突っ立った若者は「わしと相撲をせ」と言いました。源太夫はとても勝てる気がしませんでしたが、帰りになら勝負をしてもよい旨を伝えて本村に向かいました。
夕方、祈祷を済ませた源太夫が谷川通りに差し掛かると、行きと同じ所に若者が突っ立っていました。若者はそばに生えていた生竹を引き抜き、手でしごいてまわしにし、源太夫に飛び掛かってきました。
月あかりの下、二人は死力を尽くして戦いました。勝負は4時間以上にもおよび、先に力尽きたのは若者でした。若者は最後に、「無念」と一言残して倒れてしまいました。源太夫が勝ったのです。
翌朝、源太夫は子どもに昨夜の勝負のあとを見に行かせました。すると、子どもは驚いて飛ぶように帰ってきて、大声で言いました。「大きなタヌキが、竹のまわしをして死んでいる!」なんと、源太夫と相撲を取ったのは、若者に化けたタヌキだったのです。
源太夫はタヌキの霊が悪さをしてはいけないと思い、石碑を建て、心を込めて供養しました。石碑には、「大将軍御森 寛延二己巳年九月日 願主 源太夫」と刻まれていました。寛延2年は1749年、今から275年前の出来事になります。「大将軍」というのは、「お前を大将軍にしてやるから、人間に悪さをせず静かに眠ってくれ」という源太夫の思いかもしれません。
なお、石碑は八幡神社の近くに建てられましたが、現在は南但馬自然学校敷地内にある大師堂の横に移設されています。
江戸時代、「中秋の名月」の行事は豊作に感謝する習わしとして庶民の間に広がりました。農作業は月の満ち欠けに合わせて行われていたため、月の神は五穀豊穣のご利益をもたらすとされていたのです。人々は毎年、「月見団子」と魔除けや神の依り代の役割をもつ「ススキ」をお供えし、美しい月を見ながら、豊作への祈りと感謝を月の神に捧げてきました。
また、相撲は、古くはその年の収穫を占う儀式として始まり、現在も、秋祭りで豊作に感謝し、子どもたちの相撲を神社に奉納する風習が残っています。
私たちの暮らす朝来市のような農村地域では、このような年中行事が、人々の暮らしの中で一年のリズムを刻んできました。
今年の9月は、月夜の伝説、そして、人々が積み重ねてきた暮らしの営みに思いをはせながら、「中秋の名月」を楽しんでみてはいかがでしょうか。
問い合わせ先:文化財課
【電話】670-7330【Eメール】bunkazai@city.asago.lg.jp
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