◆富岡鉄斎の義士図をめぐって
今年は、近代日本の文人画を代表する富岡鉄斎(てっさい)(1836-1924)が没してから100年。京都をはじめ、各地で記念の展覧会が開かれていますので、ご覧になった方もおられるかも知れません。
長命だった鉄斎は大正期まで活躍し、「最後の文人画家」と称されました。幕末の若き時代から、絵画とともに石門心学、儒学、国学、仏教などを学び、神官を辞してからは、京都で在野の画家・学者として生きていきます。そして、座右の銘とした「万巻の書を読み、万里の路を行く」を実践し、晩年まで旺盛に制作。やがて従来の南画、水墨画の枠に収まらない表現の高みをつくり出します。
その鉄斎が、赤穂義士を題材とした作品を表し、義士の顕彰に力をつくしたことはご存じでしょうか。
彼の代表的な義士図は、1883年(明治16)制作の清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)蔵《赤穂義士像》でしょう。八曲一双屏風の一扇(せん)(一つのパネル)ごとに、大石良雄ら義士の姿を3、4人ずつ描き、その上部に、江戸時代の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)の『赤穂義人録』から引用した賛を入れています。屏風全体で、つまり画と書、文章により義士と赤穂事件の概要を表そうとした大作です。
画面をよく見ると、興味深いことに気づきます。京都山科にある大石神社蔵《赤穂義士画像》(1729年頃)の義士と姿が似ているのです。大石神社蔵のものは双幅の掛軸。吉良邸の表門から討ち入った表門隊、そして裏門隊に分けて表した出立図です。人物の構成は違いますが、一人一人の姿を比べていくと、座る向きや姿勢、名前を記した札の位置など酷似したところが見つかります。
今日の感覚でいえば、別の作品に似ていると、オリジナリティに欠けると思われる可能性があります。しかし赤穂事件の頃、写真はありませんので、義士の本当の面影を知るには、それを記録した確かな絵画を探すしかありません。
鉄斎が参考にした出立図は、義士の切腹後につくられた肖像を基にしたといわれるもので、彼はその模写も行っています。実際の肖像に近いかどうか検証すべき点はあるのですが、その頃の鉄斎が根拠を求めていたのは間違いなく、他にも大石良雄の自画像とされる絵を参照した《大石主従図》なども残しています。
事件後、世に出た義士の絵の多くは、芝居や講談の影響で脚色されていたのに対し、鉄斎のそれは史実を求めようとする傾向に入るのでしょう。ただし、元の画像の忠実な再現ではなく、洒脱な水墨表現を行ったところに彼の個性が表れています。
鉄斎はまた、京都・瑞光院における義士顕彰活動に長く関わりました。瑞光院は赤穂浅野家の祈願寺だった寺で、事件当時の院主は大石良雄と諮り、浅野長矩の衣冠を境内に埋めて供養塔を建てた他、義士の遺髪も貰い受けています。しかし文政年間(1818-30年)の火災後、衰退していました。
鉄斎は、境内にあった浅野稲荷神社を復興し、小野寺十内の妻丹(たん)の招魂碑や「大石大夫遺愛梅碑」を建立。江戸時代の義士図も寄贈しています。ここで触れた双幅の義士出立図も、当時瑞光院が所蔵していたものでした。
さらに鉄斎は、同院の義士「二百年忌追薦」の発起人となり、1911年(明治44)の義士遺髪発掘にも関りを持っています。ただし、あまり前面に出ずに支援したところが彼らしさなのですが…
鉄斎が描いた義士像は、義士顕彰の想いから生み出されたものといえるのです。
森芳功(よしのり)
(美術史研究者・元徳島県立近代美術館学芸員)
〔参考文献〕
『描かれた赤穂義士』赤穂市立歴史博物館、2012年11月。
奥田素子「鉄斎-粉本に見る学びの跡」、同名の展覧会目録、鉄斎美術館、2010年5月。
森芳功「富岡鉄斎〔書簡今泉宛〕をめぐって―鉄斎の赤穂義士顕彰活動、鉄斎と今泉雄作の交流」『徳島県立近代美術館研究紀要』第6号、2004年3月。
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