■元禄14年の城請取りに見る赤穂城下町
元禄14(1701)年の「赤穂事件」の結果、赤穂藩主浅野家は断絶されました。それに伴い江戸幕府による赤穂城の収公(しゅこう)を行う受城(じゅじょう)が行われました。受城は、幕府から任命され現地で直接役務に携わる受城使・目付・代官によって執り行われました。とりわけ受城において大きな役割を果たした受城使には、龍野藩主(たつのはんしゅ)脇坂淡路守安照(わきさかあわじのかみやすてる)と足守藩主(あしもりはんしゅ)木下肥後守公定(きのしたひごのかみきんさだ)が任命されました。脇坂淡路守は請取り後の城内の維持・管理を行う在番役(ざいばんやく)も申し付けられています。目付には荒木十左衛門(あらきじゅうざえもん)・榊原采女(さかきばらうねめ)が、代官には石原新左衛門(いしはらしんざえもん)・岡田庄大夫(おかだしょうだゆう)が任命されました。
龍野藩が編成した行列は4,545人にも及びます。「赤穂城請取淡路守行列図(あこうじょううけとりあわじのかみぎょうれつず)」に描かれる行列の様子は、行列に参加した各人が装飾性の強い武具や道具を持ち、役目ごとに統一された衣装を身につけています。城の請取りで編成された大規模な行列は、実戦を想定した行軍ではなく、沿道の領民に支配者の権威と領主の交代を視覚的に示すものでした。
元禄14年4月18日、目付による命令が下りず、龍野藩の行列は先頭が城下に入る東惣門の手前で停止しています。惣門は、城下町内外を区切る境界としての役割を果たしていました。目付から城下への進入を許可する命令が出されると、龍野藩勢は、惣門を通り赤穂城下に入っています。龍野藩勢は、江戸道と呼ばれた参勤道を通行しています。大手前には城請取りの実務を行う脇坂淡路守が着座し、その軍勢は大手筋の両側に広がる町屋地区全域に担当する守備場である丁場に分かれました。侍屋敷が受城完了まで使用できないことから町屋地区はとりわけ重要な役割を担っています。城の請取り後も、町人は原則従来通り居住し続けることとなります。物理的な変化が生じないことから、主要な行列を町屋地域に配することにより、藩主の交替を町人に対し顕示しました。
一方、足守藩主木下肥後守は、備前道を通り、西の惣門から赤穂城下へ進入しています。受城当日、足守藩の担当した丁場は、塩屋口門前から上仮屋一帯の侍屋敷地区を担当しています。塩屋口は裏門である搦手(からめて)であり、侍屋敷はすでに住人が引き払い無人であることから、龍野藩との立場の差が見られます。
受城開始まで、追手門(大手門)外に受城使脇坂淡路守、目付荒木十左衛門、代官石原新左衛門・岡田庄大夫が待機しています。一方、塩屋口門外には、目付榊原采女と木下肥後守が控えています。町人に対する城郭(じょうかく)の権威(けんい)は、日常、町人地に開かれ、町人の目に入る追手門付近に視覚化されています。各役人の大手前での所作・待機場所は、城郭の権威を城主の交代にかかわらず継続し居住し続けることとなる町人に対して顕示したものと考えられます。翌19日午前6時、目付の命令とともに、一斉に受城が開始されています。
本丸の請取りが終了した段階で、受城使・目付・代官は揃って本丸御殿へ玄関から入っています。いずれも大書院に着座し、受城使任命が記される黒印状も大書院に置かれています。大書院は、本丸御殿で最も格式の高い部屋であり、本来は藩主が着座する場です。幕府により発給された黒印状が、大書院に置かれることにより、赤穂城下町と赤穂藩の領地が幕府により収公されたことを示しました。
以上、受城使による大規模な軍事的行列が都市内に進攻し、本丸へと向かう儀礼的な式次第は、城下町における城郭が都市の意識上の中心を形成していることを示しています。同時に、儀礼における空間的な区別からは、城下町が、身分や役務といった封建的な社会的立場の差異を示す場であったことを認識できます。
生田国男(いくたくにお)(岡山県立大学非常勤講師)
※「木下肥後守公定」の「公」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
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