■大仙寺と覚海上人
船谷の「寺が平」に、平安時代後期から江戸時代にかけて地蔵院、寿量光院、大仙庵という塔頭をもつ与光寺がありました。江戸時代初期に一時的に与光寺は池山に移りましたが、延宝7年(1679)に船谷で法灯を守っていた大仙庵に統合して大仙寺となりました(『養父町史第三巻』)。大仙寺と与光寺の本尊は同じ阿弥陀如来坐像です。
船谷の与光寺で学頭になったと伝わるのが若き日の覚海上人(1142年~1223年)です。養父市長野の出身と伝わる高僧で、建保5年(1217)高野山検校(けんぎょう)に就任し、現在では高野山第45世の管長です。また高野山の増福院の門前には覚海大徳翔天之旧跡と彫った顕彰碑があります。
大仙寺の本堂には、大正11年に高野山管長の土宜法龍(どきほうりゅう)大僧正が覚海上人七百年御遠忌記念として揮毫された「無尽荘厳」の編額があります。700年以上も「尽きることなく、寺の美化、祭祀に勤める」ということです。覚海上人の木像も安置されています。
池山には覚海堂があり、大仙寺の奥の院となっています。平安時代から続く与光寺と覚海上人の法灯は大仙寺が受け継いでいます。大仙寺の本堂は天保3年(1783)の建築で、山門にある龍の彫刻は丹波柏原の彫刻師である中井正次(まさつぐ)の制作です。
(教育委員会歴史文化財課)
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