余市町が交流都市提携を締結している広島県竹原市との交流を促進するため、広報誌でそれぞれの歴史・文化財を紹介しています。第2回は竹原の塩づくりについて紹介します。
竹原市には、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されている通称「町並み保存地区」があり、江戸時代から昭和戦前期までに建てられた建物が残されています。竹原地区は「製塩町」と分類されており、かつて製塩業が盛んだったことを物語っています。製塩町の重伝建地区は、全国で竹原だけです。
ところで、塩づくりは現在の町並み保存地区で行われていたわけではありません。江戸時代から昭和戦前にかけて、町並み保存地区の西側に塩づくりを行う「塩田」が広がっていました。現在、竹原駅や市役所等が立つ市街地エリアです。この地域は、かつて賀茂川河口の海が広がっていましたが、江戸時代になり広島藩はこの一帯の海を埋め立て、土地を造成することで農作物の増産を目指しました。しかし、元々海だった埋立地は塩気が強く、農作物の生育には向きませんでした。
埋立地の利用方法に悩んでいた時、竹原に薪の買い付けに来ていた赤穂(兵庫県赤穂市)の商人から埋立地を塩田にするのがよいという提案をうけました。江戸時代前半、赤穂周辺では「入浜式塩田」という新たな製塩技術が導入されていました。入浜式塩田は、瀬戸内海特有の海水の満ち引きの大きさを利用したもので、満潮時に海水を引き込むことで、効率的に大量の塩が生産できます。慶安3年(1650年)、入浜式塩田の技術導入に成功した竹原では、その後良質で大量の塩が生産できるようになり、享保5年(1720年)には約60町(約60万平方キロメートル、ニッカウヰスキー余市蒸留所施設の約4.5倍)が塩田となりました。そして、昭和30年代に塩田が廃止されるまで塩づくりは竹原の基幹産業となったのです。
さて、竹原で生産された塩は日本各地に流通していきました。例えば、千葉県銚子市の醤油醸造会社に残る1700年頃の記録に竹原塩が確認でき、関東方面にも流通していたことが分かります。そして、江戸時代中頃に北海道と大阪とを日本海回りで往復する北前船が活躍するようになると、日本海側の地域にも竹原の塩が多く運ばれるようになりました。さらに、竹原の塩は余市町内にも運ばれていたようです。ヨイチ場所の請負商人だった林家に残る幕末・明治初期の記録の中に、仕入品として「竹原塩」が記されています。余市にもたらされた竹原の塩は、秋味に使われたようです。
(竹原市教育委員会 文化生涯学習課 文化財保護係)
問合せ:社会教育課文化財係
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