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【特集】岩内大火復興70周年(前編)すべてを奪い尽くした劫(こう)火

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北海道岩内町

今から70年前の昭和29年、岩内町は未曾有の災禍に見舞われました。洞爺丸台風(台風15号)による大火です。これにより、市街地の8割を焼失し、多くの尊い人命や財産を失いました。その結果、焼け出された1万7千名以上の人たちは、避難生活を余儀なくされたのでした。しかし、岩内の人たちは、どんなに過酷な状況であっても、決してあきらめず、助け合って今日の岩内町を築いてきました。
70年の時を経て、岩内大火があった事実を知らない人が多くなり、一方で、大火の実体験者も少なくなる中、町と消防署では、9月21日(土)に、「岩内大火復興70周年記念式典」を開催し、過去から学び被災経験を教訓とすることで、未来に向けた災害に強いまちづくりを考え、町民全体の防災意識の向上を図る機会にしたいと思っています。
岩内大火と復興について、今月号と9月号の2回にわたり特集します。

◆岩内大火の概要
1954(昭和29)年9月26日(日)、午後8時15分。本町の南西部、相生地区の一軒から発生した火事は、折しも日本列島を移動中の「洞爺丸台風」の烈風にあおられて、一夜にして市街地の8割が焦土と化しました。
出火当初は、風速20メートル以上の南方向の風でした。火元の家は、火のついた状態の屋根が飛ばされ、70メートル程離れたところに落下し、そこから北方向の御崎・大和地区を焼き払っていったのでした。ところが、急に風向きが西に変わり、今度は大和地区から万代方面へと火の手が延びていきました。
港付近では、船の燃料が入ったドラム缶が爆発し、火玉が飛び散って、新たな火元をつくり、また、引火した係留船が強風にあおられ、大浜の海岸へ流れ着き、本町の東端、大浜地区から中心部に向かってじわじわと燃えていったのでした。
火は、市街地をなめるように、余すところなく焼き尽くしました。

◆被害の状況
・焼失面積…106万平方メートル
・焼失家屋…3298戸
・損傷家屋…914戸
・り災人口…1万7223名
・死者・行方不明者…35名・3名
・負傷者…551名
・漁船被害…135隻
・被害総額…約100億円(当時)
・避難所…学校・寺社など36カ所
・避難者…1万4312名

◆被害拡大の要因
・台風による暴風とめまぐるしく変化した風向のため、十分な消火活動ができなかったこと
・燃えやすい木造建築物が多く密集していたこと
・市街地の発展形態が、他の漁港市街地でも見受けられるような、自然に任せた不規則・雑然としたものであり、都市計画上の土地区画整理が行われていれば、これほどの大火にまでは至らなかったのではないか
(岩内都市計画事業火災復興土地区画整理誌)

◆ガバメントクラウドファンディング(寄附)のお礼
全国からたくさんの方々のご支援をいただき、誠にありがとうございました。
復興記念事業に有効に活用させていただきます。
達成金額:175万3千円(136個人・法人)〈7月17日現在〉

◆岩内大火復興70周年 記念式典(開催概要)
日時:9月21日(土)13時30分開式、16時30分閉式予定
場所:文化センター・大ホール
次第:式辞、献花、誓いのことばなどのほか、講演会(武田真一氏〈フリーアナウンサー、朝の情報番組「DayDay.」MC〉)ピアノ演奏(大家純子氏)
※どなたでもご参加いただけます。
参加人数の把握のためお手数ですが、下記のQRコード(本紙参照)から事前に登録をお願いします。電話でのお申込みも受付しています

■「洞爺丸台風」とは
台風15号は、9月26日未明、鹿児島に上陸した後、スピードを上げて日本海に抜け、北海道に接近する頃には、最大瞬間風速が50メートルを超えるくらいにその勢力を増していました。
この台風により日本各地で被害が発生し、函館港沖では青函連絡船「洞爺丸」が遭難、1139名もの尊い命が犠牲となりました。この事故が、“洞爺丸台風”という通称を生み、また、後に青函(海底)トンネル建設のきっかけとなったといわれています。

◇被害状況
死者・行方不明:1761名
住家の全・半壊、流出:20万7542戸
住家の床上・床下浸水:10万3533戸
耕地被害:8万2963ha
船舶被害:5581隻
住家焼失:3298戸
木材被害:2200万石(上川)、1840万石(層雲峡)
※層雲峡では、倒木等の処理に3年を要したとのこと。

問合せ・申込み:総務係
【電話】62-1011

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