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[特集]帯広の森50周年―未来へつなぐふるさとの森―(1)

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北海道帯広市

帯広の森は、市民の手による森づくりが始められてから、50年の節目を迎えました。これからの森との関わり方を考えるため、史実とともに、森の成長を振り返ります。

■帯広の森について
帯広の森は、帯広駅から南西方向約5.5キロメートルにあり、幅約550メートル、延長約11キロメートル、都市計画決定された面積は、406.5ヘクタールで、グリーンパークの50倍以上に及びます。
市街地の近くにありながら、帯広の森一帯が緑の回廊となっており、十勝川、札内川の河川緑地とともに帯広の街を包んでいます。

■帯広の森の歴史
・昭和44年 「帯広の森」構想誕生
・昭和45年 帯広の森と街を造るグリーンプラン発表
・昭和49年 都市計画決定
・昭和50年 帯広の森造成計画作成、第1回市民植樹祭
・平成3年 第1回市民育樹祭
・平成6年 帯広の森利活用計画策定
・平成22年 帯広の森・はぐくーむオープン
・平成27年 帯広の森森づくりガイドライン策定
・平成28年 「もりの山」完成

■森を切り拓(ひら)く
今、私たちが暮らすこの帯広の地は、もともとカシワやハルニレなどの木々が、どこまで行ってもうっそうと生い茂る原生林でした。
転機が訪れたのは、明治16年。この地へやってきた依田勉三が率いる晩成社によって、開拓の鍬くわが入れられて以降、先人たちの労苦により開墾され、十勝発展の礎いしずえとなる豊かな農地として、森はその姿を変えていきます。

■森を再生する
終戦後、日本経済が飛躍的に成長を遂げる「高度経済成長期」に入ると、経済発展による生活水準の向上に伴い、日本の人口は急激に増加。都市の無秩序な拡大や環境破壊などが、深刻な問題と化していました。
そうした中、昭和44年、第五代帯広市長の吉村博がオーストリアでの国際会議に出席した際に、「ウィーンの森」を訪れ、森の雄大さと、森と共生する地元市民に大きな感銘を受け、翌年、「帯広の森」構想を発表しました。
開墾されて失った郷土の森をよみがえらせ、緑に恵まれた環境で、二十万市民が未来の夢を描けるよう、市街地を安らぎと潤いを与える森で包む。これを「百年の大計」として進めようというのが「帯広の森」構想です。
しかし、一度は農地として切り拓いた土地に、木を植え直し、再び森に戻そうというのですから、当然、賛否両論は起こり、当時の市議会においても、激しい論争が繰り広げられたと言います。
結果は、わずか3票差で可決。その後、昭和50年に帯広の森の設計図となる「帯広の森造成計画」が策定され、ふるさとの森づくりが、幕を開けました。

『マチを抜けると森がある。どの道を行っても十勝特有の樹々が私たちを迎えてくれる。
そこでは、小鳥たちがさえずり、虫の羽音が聞こえてくる。緑深い森の中には、広場や花園、さまざまな運動施設がほどよく配置され、記念樹林、果実園、市民菜園などがある。市民のだれもが緑と太陽につつまれ、家族そろって楽しい一日を過ごす。
100年後、200年後に夢を託し、新しい歴史をつくりだす母なる森、それが私たちのめざす帯広の森なのである。』
ー帯広の森造成計画書(序文)より抜粋ー

■森を育む
森の整備は、膨大な時間と莫大な費用が必要となるものでした。そうした中、「市民の立場で積極的に森づくりを推進しよう」と市民有志が立ち上がり、昭和50年から「帯広の森市民植樹祭」が始まりました。
植樹祭は、結婚や誕生など、人生の記念に植樹する人も含めて、毎年4000人を超える市民で賑にぎわい、春の訪れを告げる大きな年中行事として、平成16年までの計30回で、延べ14万8500人が参加し、約23万本が植樹されました。
しかし、自然の森とは異なり、人の手で一斉に植樹した帯広の森は、植樹から15年が過ぎると、樹高と樹冠※1のバランスが取れず、不健康な林相※2を見せ始めました。
そこで、樹木の健全な成長を促すため、「植える森から育てる森へ」を合言葉に、平成3年から計15回にわたり「市民育樹祭」が行われました。
育樹祭では、間伐や下枝払いのほか、間伐材を使ってのキノコの菌打ち※3を行うなど、森の育樹活動に、延べ1万3000人が参加しました。
※1 樹冠:樹木のうち葉と枝の集まった部分
※2 林相:木の種類や生え方などによる、森林の様相
※3 菌打ち:木の原木に穴を開けてキノコの菌種を打ち込む作業

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