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鰊御殿とまり ごてん 令和5年12月号

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北海道泊村

■令和5年度の営業を終えました
鰊御殿とまり 館長 増川佳子

子どもの頃にはたくさんの雪虫が初雪を告げに飛びかっていました。「最近、見なくなったなあ。」と思いきや、今年は雪虫の多かったこと。それも、白くなくてとっても小さい雪虫なので、鼻や髪の毛にくっついて「やだなあ、やっぱり秋は。」と久しぶりに思ってしまいました。雪虫が飛び「そろそろ雪かな。寒くなるな。」という頃には、お客様もぐんと減り、11月12日(日)に『鰊御殿とまり』は今年度の営業を終えました。
さて『鰊御殿とまり』で泊村の歴史に触れる度に、子どもの頃耳にした言葉の意味に気付くことがよくあります。「ただいま。」「どこ行ってきた?」「港で遊んできた。」「カネナカイチの浜か?カネシチか?」「???港だよ。」小学生の頃の祖母との会話。カネナカイチやカネシチの浜の場所も屋号がどこの家を指していたのかも今頃になってわかりました。(ぼんやりした子どもでした。)
先日には、北前船について書かれた『北前船の功績』(須藤隆仙南北海道史研究家)を読んでいて「ああ、そうだったんだ。」という発見をしました。“ホマチ”という言葉です。

片道2ヵ月から3ヵ月かけて、方々の港で商売をしながら大阪と北海道を行き来した北前船。(春に大阪を出港し、秋に戻る1年1往復)北海道には、大阪の酒や木綿、雑貨、瀬戸内の塩、琉球の砂糖、北陸の縄、筵、米など、生活に欠かせない品々がもたらされた。一方、北海道からは、本州では入手が難しい物資が運ばれた。当時の蝦夷地には、ニシンや数の子、サケ、マス、煎海鼠(ナマコをゆでて干したもの)、干しアワビ、コンブといった貴重な海産物はもちろん、アイヌの人と中国との交易でもたらされた織物「蝦夷錦」や高価な香の類、タカの羽やアザラシの皮などもあった。しかし、その航海は「板子一枚下は地獄」といわれたように、たいへん危険の伴うものだった。
乗組員は11~13人程度。船員には固定給の他に「帆待ち」や「切出し」という歩合給のような収入があり、これが北の荒海へ挑む原動力となった。

〈帆待ち〉
1.契約以外の荷物の運送で内密の収入を得ること。その収入。
2.臨時に入る収入。ひそかに貯えた金。へそくり。

「これ“ホマチ”だよ。」と幼い頃、小銭やお菓子などをもらいました。「“ホマチ”ってなんだろう。内緒ってことかな。少しってことかな。」と思いながら問うこともなく過ごしました。その“ホマチ”が、半世紀も経って“帆待ち”という文字で目に触れました。幼い頃にもらった“ホマチ”は、祖母のへそくりからこっそり渡してくれたお小遣いだったのですね。
秋に航海を終える北前船の乗組員にとって秋は、“ホマチ”を懐に華族のもとへ帰る季節であり、年越しと新年を盛大に祝う準備を始める季節だったことでしょう。

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