■その101「北海道芽室高等学校」(芽室町東めむろ一条北一丁目六番地)
芽室歴史探訪会 土岐一雄
昭和二十三(一九四八)年五月末日、東三条四丁目にあった旧芽室青年学校の校舎を使用して町立芽室高等学院を開校したのが始まりである。当時は四か年の定時制で、農業科(季節制)と普通科(夜間制)であった。同年十月、北海道清水高等学校芽室分校となり、次いで翌二十四(一九四九)年十月、独立校に昇格し北海道芽室高等学校と改称された。
これにより、町は高等学校整備五か年計画を立て、校舎の増築や屋内体育館の建設、教材教具の整備等に取りかかった。これらの工事は、同二十五(一九五〇)年四月から同三十(一九五五)年の十二月に亘って進められた。特筆すべきは、これらの施設等の建設が全て町の自主財源によるものであったことに加えて、当時の生徒や教職員が作業用具持参で登校、出勤し、授業の合間に環境整備に努めたことであった。
この間、同二十九(一九五四)年二月には全日制普通課程の設置が認可され、更に、同三十二(一九五七)年三月一日、道立移管が認可された。
やがて、同五十(一九七五)年代に至り、校舎の老朽化問題が生ずるようになってきた。これへの対応策としての校舎の改築案は、やがて校舎の移転新築構想へと進展していき、同五十五(一九八〇)年から新築工事に着手した。
そして、同五十八(一九八三)年十二月二十三日、校舎が新築された現在地に移転した。更に、翌年には定時制課程を閉課し、全日制普通科単置校としての歴史を歩み始めたのである。
それから四十年、今日の芽室高等学校は、校訓『切磋琢磨』の下、活発な部活動は生徒会執行部、図書局、放送局、新聞局。体育系部活動は十三部、文科系部活動は七部である。また、令和四年度の進路決定状況を見ると、四年生大学が三十九名、短期大学が十七名、大学校が一名、専門学校が四十三名、高等看護学校が十三名、公務員が八名、民間就職が二十六名である。
▽引用・参考文献
「芽高三十年史」開校三十周年記念事業協賛会昭和五十四年九月一日発行
「芽高五十年史」創立五十周年記念協賛会平成十一年九月三十日発行
「芽室町百年史」芽室町役場平成十二年発行
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