昭和39(1964)年3月22日未明、芽室町の本通2丁目付近から火災が発生。
折からの強風により延焼が拡大し、87戸が全焼、403人が被災し、一晩にして中心市街地は焼け野原となりました。
この『芽室大火』から60年。当時を知る方の手記や資料でこの災害を振り返ります。
■当時を知る方の手記―
発災当時、芽室の中心市街地で働いていたというAさん。夜中に突然鳴ったサイレンと当日の強風から「火事だ!」と直感し飛び起きたそうです。
あの大火から60年。当時を知るAさんから頂いた手記を掲載します。
芽室市街地の大火から60年。芽室中心街の火災、当時の事を知る人も少なくなってきました。
昭和39(1964)年3月22日午前1時10分頃、その最大風速20m(後日知る)程の強風が吹き荒れ電線がゴーゴーとうなる音をたて春風が吹いている時、就寝中火災のサイレンが鳴り出した。
「あ!」この強風に火事だと飛び起き、2階の窓から見ると夜でしたので、近くの火災だと思い身支度して強風の中、現場に向かって走った。現場は少し遠く本通2丁目付近の火災に見えた。
火は強風に煽られ、段々と広がるばかりであり、もう中心街は終わりだと思った。この火が我が家の方に来るのではないか。心配になって家へ戻り、湯舟を水で一杯にした。火が飛んで来たときに消すためである。
町の消防車が出勤し消火に懸命であったが、強風のため火は段々と広がり続け、消火が困難となり近くの市町村の応援を求め消防車、団員の方々の応援を受け午前5時頃なんとか鎮火した。
全焼87戸(403人)の被害者が出ましたが、不幸中の幸い、死者1人も出なかったとその後お聞きしました。
役場、農協はなんとか無事でしたので午後に昭和39(1964)年3月22日未明、芽室町の本通2丁目付近から火災が発生。折からの強風により延焼が拡大し、87戸が全焼、403人が被災し、一晩にして中心市街地は焼け野原となりました。この『芽室大火』から60年。当時を知る方の手記や資料でこの災害を振り返ります。なり私は農協屋上から火災の焼け跡を見ました。
建物は全部焼け、あとに残ったのは、ローソクのような集合煙突があちこちに立っているのみで、ただむなしさで涙が出るばかりでした。
今でも時々春の強い風が吹くと、その当時のすさまじい大火の事が思い出されます。あのような災害を起こさないために、お互いに火の元に気を付けましょう。
大火について、詳しくは芽室町80年史(昭和57年9月発行)683ページ、芽室町100年史(平成12年3月発行)666ページに掲載されていますので、そちらをご覧ください(図書館でも閲覧できます)。
大火のことを「死ぬまで忘れないと思う」と振り返ったAさん。貴重なお話をお寄せいただき、ありがとうございました。
■大火発生からの経過
3月22日1時10分火災発生の通報を消防本部で受ける
1時11分芽室消防団ポンプ車4台出動
1時14分役場職員非常呼集、災害対策本部設置
3時00分災害救助法発動
4時51分鎮火状態となる
3月23日18時00分
日用雑貨を被災者に配分
罹災地の片付け、ほとんど完了
仮設住宅(パネル式)建設始まる
3月29日西園町に仮設住宅3棟6戸竣工
4月4日町営仮設店舗竣工
4月10日栄マーケット開店式挙行
5月初旬焼跡地の復旧工事急速に進む(建築工事開始戸数=消失戸数の5割に達する)
6月下旬~焼跡の新商店街続々と開店、営業開始
8月5日~9月11日大火復興まつりが行われる
■写真資料で振り返る、芽室大火
発災の翌日から仮設住宅の建設が開始され、3週間後にはマーケットが開店。半年後には復興祭りが開催されるなど、激動の時期を写真資料で振り返ります。
一覧については本紙をご参照ください
火災を出さないためには、一人ひとりが「火事を起こさない」という意識が必要です。
二度とあのような災害を引き起こさないためにも、お互いに声をかけ合い、防火意識の向上に努めていきましょう。
(1)隣近所同士で声をかけ合い火の用心の心掛けを忘れません。
(2)自らが火の始末を心掛け火災の原因となる行動は行いません。
(3)このまちで起きた大火の教訓を後世に伝えていきます。
平成26年3月芽室大火50年「誓いの言葉」より
■芽室大火特別展のご案内
芽室大火60年の節目を機会に、これを芽室町の歴史として伝え、60年前の教訓をどう活かすのか考えるきっかけとしてもらうことを目的とし、特別展を実施します。
日時:3月14日(木)~4月14日(日)
※火・水曜の休館日除く
場所:芽室町ふるさと歴史館
展示内容:
歴史館所蔵写真パネルおよび大火記事掲載書籍、青山忠義氏所有「大火で溶けた鍋」の展示。
芽室高校放送局2004年「町が燃えた日」CD、飯沼宏氏所有DVDの視聴。
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