教育委員会は、史跡文化財マップを作成し、町内にある史跡や文化財を紹介しています。
地域ごとに6つのエリアに分け、隔月連載でその内容をお伝えしています。今月は下士幌地域編です。
■大川宇八郎顕彰碑
大川宇八郎は、岩手県に生まれ商人として来道。明治13(1880)年、「ムメ(福平地区)」に来住し、その年に「サッテキ・ヲトフケ(相生中島)」に掘っ立て小屋を作り住み始めました。音更に定住した最初の和人です。以後、高台(相生地区)に移住し、入植者を助け開拓の祖として敬慕されました。昭和35(1960)年の行政施行60周年に、町と町民有志により下士幌神社境内に顕彰碑が建立されました(昭和55年、本照寺境内に移設)。
■久保栄文学碑
久保栄は、十勝地方の大冷害・凶作の中で生き抜く小作農民や焼子(やきご)(炭を焼く人)の生活、小作・焼子争議を調査し、昭和12(1937)年、戯曲「火山灰地」を発表しました。昭和13(1938)年、東京で初演し、その後、昭和23(1948)年に俳優座が、昭和36(1961)年に劇団民芸が上演しました。
■十勝の水田発祥地
明治27(1894)年、下士幌の増田立吉は、士幌川河岸に十勝初の水稲を約0・5ヘクタール作付し、152キロの米を収穫しました。明治28(1895)年には6戸が入地するなど、多くの開拓者が訪れ教えを受け、士幌川下流地域は水田耕作でにぎわい、下士幌発展の基礎をつくりました。
■ヲトケフブトと松浦武四郎止宿地
松浦武四郎は、安政5(1858)年の3月と7月に十勝地方内陸部を調査しています。音更川の河口は、「ヲトケフブト」といわれ、武四郎はその2~3丁ほど下流にあった惣乙名(トカチ場所総首長)シラリサの家に止宿。その時、この地の将来の発展を予想し、次の歌を詠みました。
[このあたり 馬の車のみつぎもの 御蔵を立てて 積まほしけれ -東蝦夷日誌-]
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