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新五千円札の肖像に選ばれた女性 津田 梅子(1)

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千葉県佐倉市

日本で初めて海外に留学した女性の1人であり、現在の「津田塾大学」の創立者である津田梅子。
日本における女子高等教育の先駆者として、今年の7月3日、約20年ぶりに改刷された新五千円札の『顔』に選ばれました。
実は梅子、彼女に留学を勧めた佐倉藩出身の父・津田仙の娘であり、佐倉にルーツを持つ人物です。
そこで、今回は梅子と仙の功績について紹介します。

■お札に選ばれる人ってどんな人?
お札の肖像に選ばれる人は、国民に広く知られていること、その業績が広く認められていることのほか、偽造防止の観点からなるべく精密な写真を入手できることなどを条件に選ばれています。
今回の改刷により、五千円札の「津田梅子」のほか、一万円札に「渋沢栄一」、千円札に「北里柴三郎」が、それぞれ新たな産業の育成や科学の発展に大きく貢献した人として選ばれました。

■津田梅子の人生と功績 [1864年(元治元年)~1929年(昭和4年)]
◆津田仙・初の二女として生まれる
1864年(元治元年)佐倉藩の藩士であった津田仙とその妻・初の二女として、江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区)に生まれました。

◆日本初の女子留学生として渡米し、アメリカの文化や語学などを学ぶ
1871年(明治4年)、梅子は、渡米経験があった農学者の父・仙に勧められ、岩倉使節団とともに、日本初の女子留学生の1人として、最年少の6歳でアメリカに渡りました。
留学中は、ランマン夫妻のもとでたくさんの愛情を受け、アメリカの文化を直に感じるとともに、質の高い教育を受けました。そして、17歳までの約11年間を過ごしました。

◆日本へ帰国し、華族女学校などで教師として働く
1882年(明治15年)、梅子は一緒に留学していた山川捨松と帰国します。しかし、当時の日本に女性が働く場所はほとんどなく、梅子は女性が置かれている環境や地位の低さを目の当たりにして、男女が互いに尊重しあうアメリカの環境との差を感じ、落胆しました。
それとともに、女性の地位向上に対する思いが募り、そのためには、女性の意識を変えていく必要があると考えました。
また、留学で学んだことを役立てて働ける場所を探していた梅子は、岩倉使節団で面識のあった伊藤博文と再会し、伊藤の紹介で、桃夭女塾(とうようじょじゅく)の教師となります。その後1885年(明治18年)には、華族女学校の英語教師となり、留学中に親しくしていたアリス・ベーコンも教師として招かれます。

▽Point
在学中に「日本婦人米国奨学金」委員会を設立。この奨学金によって、後に多くの女性が留学できました。

◆再びアメリカへ留学することを決意
アリスの後押しもあり、1889年(明治22年)梅子は再度渡米し、当時アメリカで女子高等教育に力を入れていたブリンマー大学へ入学します。
大学では生物学を学び、カエルの卵についての研究をしました。また、生涯の友となるアナ・ハーツホンとも出会い、充実した学生生活を送りました。
優秀であった梅子は、「アメリカで研究を続けないか」と誘われますが、日本での女子高等教育の推進が自分の使命だと考えていたため、誘いを断り帰国しました。

◆帰国後に教育者としてつとめ、女性のための学校設立を目指す
帰国後の梅子は、華族女学校に復職し、その後、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)などでも教鞭をとりました。その間も梅子は、自分の手で女性のための学校をつくりたいと考えていました。
また、その後のアメリカ訪問時にはヘレン・ケラーと、さらに、イギリス訪問時には、尊敬するフローレンス・ナイチンゲールと会見し、大きな影響を受けました。梅子は、その時ナイチンゲールにもらった花束の一部を押し花にして、生涯大切にしました。

◆協力者たちとともに女子英学塾を開校 自ら教壇に立ち、女子高等教育を推し進める
1900年(明治33年)、梅子が35歳の時に、日本初の、女子高等教育のための学校「女子英学塾」を開校し、長年の夢を叶えます。これは、現在の津田塾大学の前身となる学校です。
初めは、小さな校舎で生徒も10人ほどでしたが、進歩的でレベルの高い授業を行う学校であることが広まり、評判が高まると生徒数は増えていきました。
学校の開校や運営には、資金調達などのさまざまな困難がありましたが、ともに留学をした瓜生繁子や大山捨松をはじめ、アメリカで出会ったアリス・ベーコンやアナ・ハーツホンらの協力もあり、乗り越えることができました。このほかにも、梅子を応援する多くの人の力により、塾は学校として成長していきました。

▽Point
梅子は、自ら教科書の校訂に携わり、欧米の名作を数多く活用しました。また、英語の雑誌「英学新報」の執筆にも関わっていました。

◆長い闘病生活後、この世を去る
女子英学塾を開校してから数年、体調を崩していた梅子は教壇を遠ざかります。その後も、女子英学塾は、多くの学生を育て、世に送り出していきました。
1929年(昭和4年)8月16日、関東大震災で全焼した校舎の再建を見届けることなく、梅子は、別荘で息を引き取りました。その日の日記には、「Storm last night(昨夜は嵐)」と記されていました。

◆津田塾大学に残る、梅子が目指したもの
梅子が亡くなった後の1931年(昭和6年)、関東大震災で全焼した校舎にかわって、現在の東京都小平市に校舎が移転されます。
そして、1933年(昭和8年)、女子英学塾は、創立者津田梅子を記念し、「津田英学塾」と改称され、その後、1948年(昭和23年)に津田塾大学が設立されました。
梅子は、女子英学塾開校時に「学校において大切なのは、熱心な教師と学生の研究心であり、英語の習得だけではなく広い視野を持つ『全まったき女性』の育成を目指す」と語りました。この考えは今の津田塾大学にも受け継がれており、津田塾大学は、各分野で多くの研究者や政治家、教育者などを輩出しています。

◆女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じ、英語教育を通じて、女性の活躍の場を広げたいと考えていた津田梅子。女子高等教育の必要性を説き、学校を設立するなど、その人生をかけて尽力しました。
発行された新しい五千円札を目にしたら、梅子の偉業に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

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