市では、戦争の悲劇を忘れず、誰もが望む恒久の世界平和を実現するために、「佐倉市平和行政の基本に関する条例」に基づき、さまざまな平和事業を行っています。
今回は、長崎で被爆したお母さんの体験談を語り継いでいる、樋口惠子さんのお話をご紹介します。
■樋口惠子さん(佐倉市在住)
樋口さんのお母さんは、長崎で被爆され、大やけど負ったものの奇跡的に回復されました。
お母さんの体験や平和への思いを若い世代に伝えるため、平成28年から、「語り部」として活動され、佐倉市の「小学校平和祈念講話と映画会」でもご講演いただいています。
■母の被爆体験
昭和20年、大国を相手に戦争していた日本は、すべてのものを戦争に費やし、何もかもが不自由で苦しい時代でした。
8月9日午前11時2分、当時17歳の母が兵器製作所で働いていると、目の前が突然ピカッと光り、その瞬間、気を失ってしまいました。爆心地から1km程の距離がありましたが、気が付いたときには、天井や梁の木材の下敷きになっていました。何とか這い出した母が目にしたのは、着物がボロボロに焼けちぎれ、髪はボウボウと逆立ち、焼けただれた体を引きずりながらゾロゾロと歩く人々の地獄のような惨状でした。
母自身も、顔と両腕に大やけどを負い、体中にガラスの破片が刺さっていましたが、収容された小学校では治療が受けられず、真夏の暑い中、傷口が腐ってウジ虫が湧きました。
ひどいけがで、とても助からないと思われた母でしたが、奇跡的に快方に向かい、叔母の家に移ることになりました。そこで初めて、母親(樋口さんの祖母)と二人の妹の葬式を済ませたことを告げられました。被爆地近くの実家にいた13歳の妹は即死、母親と15歳の妹は、遺骨のひとかけらも探し出すことができず、家族の中でただ一人生き残ることになりました。
■平和への願い
日本はなぜ戦争をしなければならなかったのか。何のため、誰のための戦争だったのか。命ほど大切なものはなく、戦争はその命を奪い合うものです。たとえ生き残ったとしても、一生忘れられない苦しみを持ち続けていかなければならないもの、それが戦争です。
今も世界中で戦争が起き、人間らしく生きることすらままならない多くのかたがたのことを思うと心が痛みます。二度と核兵器が使われることのないよう、お互いを理解し合い、話し合いで解決できる、戦争の無い平和な世界へと進んでいけるように願っています。
■語り継ぐ決意
被爆されたかたの多くは、「この悲惨な出来事を思い出したくない、忘れてしまいたい」と思っていることでしょう。母も、戦後長い間、話すことはありませんでした。しかし、結婚して私たちが生まれ、すくすくと成長するわが子を見るにつけ、「子どもたちの未来のために、戦争の恐ろしさ、愚かさを伝えなくていいのか」という思いを強くしていったと言います。
私も、母の体験を深くは知らずに育ちましたが、長年、海外も含めた各地でご自身の被爆体験を語られている小谷孝子さん(2ページ写真右下)の勧めで、小中学校で講演することになり、母の体験や思いを詳しく知ることになりました。
母が、当時を振り返って書いた詩の一部を紹介します。
「人は忘れやすく弱いものだからあやまちをくり返すだけど…このことだけは忘れてはならないこのことだけはくり返してはならないどんなことがあっても…」
この母の思いを、唯一の戦争被爆国である日本に住むかたに、そして、世界中の一人でも多くのかたに、これからも伝えていきたいと思います。
問合せ:広報課
【電話】484-6103
■あなたの戦争体験を教えてください
戦後79年が経過し、戦争を経験したかたが少なくなる中、その記憶を継承し、平和の尊さを未来に伝えていくため、皆さんの戦争体験談を募集します。
募集内容:自身または家族などが体験した、戦争にまつわる話(空襲、被爆、疎開、当時の暮らしなど)
対象者:現在または戦時中に、市内(近隣を含む)在住・在勤・在学のかたとその家族
応募方法:応募用紙に必要事項を記入の上、体験談(4000字以内。様式不問)を持参または郵送、メールで、〒285-8501 市役所広報課、【メール】koho@city.sakura.lg.jpへ
※応募用紙は、広報課窓口または市ホームページ(右記)からダウンロード可
※二次元コードは、本紙をご覧ください。
締め切り:10月31日(木)(消印有効)
■NEXT
2ページでは、市の平和事業の取り組みを紹介します。
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