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シリーズめっけたぁ!!おらがの文化財(93)~南房総市内の文化財を紹介します~

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千葉県南房総市

■市指定史跡
『忍足佐内殉難(おしたりさないじゅんなん)の地(ち)』
所在地/富浦町福澤(ふくざわ)390-3(富浦地区)
所有者/個人

□村を守ろうとした義民の最期の地
江戸時代の中期、現在の富浦町福澤にあった金尾谷村(かなおやむら)という村落に、忍足佐内(1729~1771)という名主(なぬし)がいました。佐内が名主を務めていた頃の金尾谷村は、雨水に頼った水田が多くを占めていたので、明和(めいわ)5年(1768)から明和7年(1770)にかけて全国的な干ばつが発生すると、甚大な被害を受けて飢饉(ききん)になりました。
そのため、近隣の村の人々と一緒に、領主である勝山藩酒井家(かつやまはんさかいけ)の陣屋(じんや)(現在の鋸南町勝山)まで行き、年貢(ねんぐ)の減免(げんめん)を願いましたが、財政難の藩はこれを聞き入れず、対応に当たった奉行(ぶぎょう)や代官(だいかん)から賄賂(わいろ)を求められたといいます。賄賂を拒んだ佐内は、村を代表して勝山藩の江戸屋敷まで行き、越訴(おっそ)(正規の手続きを踏まない訴え)をしました。しかし佐内は、悪政が露見(ろけん)することを恐れた奉行たちに一揆(いっき)を企(くわだ)てたとして捕らえられ、明和8年(1771)に四方引(しほうひ)き回(まわ)しの上、金尾谷村近くの河原で打ち首にされました。その後、この事件は幕府に知られ、奉行たちは処罰されています。
現在、佐内が最期を遂げた河原は、護岸(ごがん)工事により当時の面影を失いましたが、佐内を供養する小さな地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)が祀られています。また、殉難の地の近くには、佐内の事績を称える顕彰碑(けんしょうひ)があります。

□公開
・顕彰碑は常時公開。殉難の地(地蔵菩薩坐像)は、私有地内なので立入禁止。
・トイレなし/駐車場なし

*マナーを守って楽しく見学しましょう。
*見学する時は、所有者・管理者の指示に必ず従ってください。

問合せ:教育委員会生涯学習課
【電話】46-2963

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