「NPO法人自殺防止ネットワーク風」代表を務める篠原鋭一先生が、人生を楽しくするレシピをご紹介します。
■一粒の豆
若き日。次のような感銘深い実話を元NHK司会者・鈴木健二さんから伺ったことがあります。
交通事故でお父さんが亡くなり、小学校三年生と一年生の男の子、そしてお母さんが残されました。
この交通事故はどちらが被害者・加害者かの判定がむずかしく、最後には加害者という決定が下されたのです。
三人は家を売り払って、見知らぬ土地を転々として暮らしていました。やがて落ち着いたのは農家の納屋。
親切な農家のご家族が見るに見かねて貸してくれたのでした。ムシロを敷いて、裸電球をつけ、一つの七輪とみかん箱の食卓でしたが、三人はとても喜びました。
育ち盛りの男の子を二人かかえてお母さんは、昼は学校給食の手伝い、夜は料理屋の洗い場へと、寝る暇を惜しんで働いていたのですが、やがて限界がきました。「これ以上働けない!申しわけないけれど、お前たちをおいてお母さんは死にます」
こう心に決めたお母さんは、家事のすべてを引き受けてくれている三年生のお兄ちゃんに最後の手紙を書きます。
──お兄ちゃん、お鍋の中に豆がいっぱい水に浸してあります。今夜は豆を煮ておかずにしてください。豆が柔らかくなったら、お醤油をいれるのですよ。──
その夜も働いて家に帰ってきたお母さんの手には、睡眠薬が握られていました。足元には枕を並べて眠っている兄弟の顔が見えます。よく見るとお兄ちゃんの枕のそばに一通の手紙が置かれていました。思わず手に取って開いてみると………、
──お母さん、ぼく一生けんめい豆を煮ました。おしょう油も入れました。でも夕食のとき、弟はしょっぱくて食べられないといって、かわいそうにご飯に水をかけて食べたのです。お母さん、ごめんなさい。でもぼくを信じてください。ぼく本当に一生けんめい煮たのです。お母さん、お願いです。ぼくの煮た豆を一粒だけ食べてください。そしてもう一度、豆の煮方を教えてください。お母さん、今夜もご苦労さまでした。お休みなさい。先に寝ます。──
お兄ちゃんの煮た豆を一粒一粒食べるお母さんの目から大粒の涙がとめどもなく落ちています。大声で泣き叫びたい気持ちをおさえて、お母さんは心の底からお兄ちゃんにわびました。
「ああ、申し訳ないことをした。お前がこんなに一生懸命生きているのに、お母さんは自殺しようとしている。申し訳ない、ごめんね。お兄ちゃん。お母さんもう一度頑張るからね」
見ると豆の入っていた袋の中に煮ていない豆が一粒残っています。お母さんはこの一粒の豆とお兄ちゃんの手紙をハンカチに包み、お守りにして肌身離さず持っていることにしたのでした。
この日から十数年。三人は貧乏のどん底から抜け出て、お兄ちゃんは東京大学を卒業、弟も同じ大学に在学中です。
一粒の豆は、今もお母さんのふところ深く大切に持ち続けられているにちがいありません。
近年貧困家庭で苦しむ幼子のことをニュースで知る度に、この話を思い出すのです。
▽篠原鋭一(えいいち)氏
1944年兵庫県生まれ。駒澤大学仏教学部卒業。
千葉県成田市曹洞宗長寿院住職。曹洞宗総合研究センター講師。
同宗千葉県宗務所長、人権啓発相談員等を歴任。
「NPO法人自殺防止ネットワーク風」代表。
公立の小学校・中学校・高等学校を巡り「いのちを見つめる」課外授業を続けている。
「生きている間にお寺へ」と寺院を開放。
「少年院」「拘置所」で特殊詐欺犯罪の結末を説き続けている。
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