■龍と栄町
町内のいくつかの神社仏閣には、龍の彫刻や天井絵があり、それらの龍は、天を舞う存在として、表現されていたことを2ヶ月間にわたりご紹介いたしました。
栄町の龍の彫刻や絵画は、江戸時代以降に制作されたものでした。全国的にみても寺社に龍が盛んに彫刻されるようになったのは、江戸時代になってからです。
なぜ寺社建築では、このように龍の装飾が好んでほどこされたのでしょうか。
日本の龍は、中国の龍に多大な影響を受けながら、そのイメージが形成されていきました。その初めは弥生時代に遡ります。
中国では、殷の時代(紀元前16~前11世紀)の遺物に龍の表現が見受けられ、漢の時代(紀元前202~後220年)に龍のイメージが完成しました。漢の時代の辞書である『説文解字』(紀元後100年の成立)には、「龍」が、「春分而登天、秋分而潜淵(春分に天に上り、秋分に淵に潜る)」と記されています。龍は、天界と水中を行き来する聖獣と考えられていました。(池上正治『龍の世界』)
水中に生息するからこそ、天に昇って雨を降らせる聖獣として認識されていた龍のイメージは、水稲耕作とともに日本に伝来しました。ここに龍と水とが連想される理由がありました。
龍が寺社建築に好んで彫刻されたのは、火災から建物を守る存在として認識されていたからだと考えられます。
龍角寺は中世から近世にかけて4度も火災に見舞われてきました。4度目の火災である元禄5年に薬師如来坐像は胴体を失うことになります。その5年後に、薬師如来坐像は本堂へ戻るのですが、その日は、春分を前に、地中で生物が蠢く“啓蟄”の時期でした。
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