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先人たちの足跡 No.289

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千葉県栄町

■浅間山古墳と岩屋古墳(一)
令和5年11月8日に、栄町を愛する女性の会と栄町教育委員会の共催で、千葉県立房総のむら風土記の丘資料館の白井久美子先生をお招きし、「岩屋古墳と浅間山古墳」と題した講演会を開催しました。その内容を今月号から数回に分けて、ご紹介します。
なぜ、古墳時代の終わりに、東の果てのこの印旛の地に、大王墓を凌ぐ規模を誇る岩屋古墳が築かれたのか。本講演は、その謎に迫る大変興味深い内容となっています。
かつて印旛沼には、江戸時代初期まで、栃木県から流れる鬼怒川と小貝川が注いでいました。霞ヶ浦や北浦にもつながっていて、香取海や香取浦と呼ばれる広大な内海を形成していました。琵琶湖にもなぞらえられるほどに広大な水域で、中世には海夫と呼ばれる漁労関係者が港湾を管理していました。平安時代末に成立した『今昔物語集』において、「布(鬼怒)河ノ尻ヤガテ海ノ如シ」と称されるほどで、船が行き交い、人や物が集まって賑わったところでした。
龍角寺古墳群は、そんな印旛沼の北東に位置します。古墳時代の後半にあたる、6世紀後半から7世紀中頃にかけて、飛躍的に力をつけた人々の古墳群です。総数115基で、大小様々な円墳や方墳、前方後円墳によって構成されています。特筆すべきは、37基もの前方後円墳の存在です。40mを超えるものは数えるほどしかなく、そのほとんどは30m以下の小規模なものです。こうした小規模なものも含めて、前方後円墳の数を都道府県で比較すると、実は千葉県は日本一です。龍角寺古墳群は、その千葉県の特徴を反映しているといえます。
古代、龍角寺古墳群は、“下総国”に位置していました。古代の下総国は、千葉県の北部と、東京都の葛飾区や茨城県の古河市(現常総市)を含む地域でした。その地理的な中心部に印旛沼は位置しています。古墳時代に、龍角寺古墳群のような規模の大きな古墳群が築かれたことは、実に理にかなっていたと言えるでしょう。(次号につづく)

生涯学習課文化財班
【電話】95-1112

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