文字サイズ
自治体の皆さまへ

先人たちの足跡 No.293

40/46

千葉県栄町

■浅間山古墳と岩屋古墳(四)
浅間山古墳から出土した金銀に輝く副葬品には、細かな技巧が施されていました。杏葉(馬具)には、毛のように細い線で芝草文(しばくさもん)や光芒文(こうぼうもん)が彫られていました。これらは、仏像の光背などに用いられる紋様です。冠飾には、紋様が浮き上がるように周囲をくり抜く技法(透かし彫り)で、植物をあしらったパルメット文(忍草唐草文)などが表現されていました。パルメット文は、法隆寺の夢殿救世観音の宝冠にも用いられている紋様です。このように飛鳥時代の仏教美術の影響を色濃く反映しているというのが特徴です。
金銅製の馬具は、関東や九州、中部地方、東北の一部から見つかっています。関東では、群馬・栃木・千葉・茨城に集中しており、7世紀初めから後半までという、非常に短い期間に制作され、配付されました。この時期、ヤマト王権は、東北地方への遠征を行っており、東北へ向かった軍団が関東で編成されていたことを考え合わせると、勲章として、それら豪族へ配付したことも考えられます。
銀製の冠飾は、関東と九州からしか見つかっていません。しかも、現在のところ銀冠であることが確実なのは、福岡県鞍手町の八尋一号墳(銀冠塚古墳)と浅間山古墳の2例のみです。これらは百済由来の金工品と考えられ、ヤマト王権が九州と関東の大豪族に配付したものだと思われます。
そして、金銅製の冠飾ですが、こちらは日本書紀の推古一九年(六一一)の記事によれば、聖徳太子が定めた冠位十二階の最上位である大徳・小徳の冠には、金が用いられ、植物文があしらわれた「髻花(うず)」と呼ばれた立飾に相当します。浅間山古墳から出土した冠飾は金メッキですから、小徳クラスまで上り詰めた重要人物が、浅間山古墳に眠っていた可能性が高いと言えるでしょう。

問合せ:生涯学習課文化財班
【電話】95-1112

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU