■浅間山古墳と岩屋古墳(五)
浅間山古墳の石室からは、もう一つ、非常に重要なものが見つかっています。石室の前室から、木の葉のようにヒラヒラとした漆の膜が出てきたのですが、これが漆塗木棺(うるしぬりもっかん)の一部でした。実は、漆塗木棺は事例が限られていて、しかも、皇族や身分の高い人物にしか使われないという特徴があります。
漆塗木棺の多くは畿内に集中しており、あの壁画で有名な高松塚古墳やキトラ古墳からも発見されているのですが、同じ飛鳥の地に築造されたマルコ山古墳をここでは取り上げます。
マルコ山古墳は、七世紀末から八世紀初頭の築造と推定され、最近の調査で六角墳の可能性が高まりました。石室は凝灰岩の切り石を積み上げて構築され、壁面が漆喰で白く塗られていました。浅間山古墳は、石室の内側が全て白い粘土で塗り固められており、石室内が白いという点で、両者の石室は似通っています。
マルコ山古墳の漆塗木棺からは、30代前半から40代前後の男性と鑑定された人骨が発見されました。築造された時期から推定すると、天智天皇の第二皇子である川島皇子が被葬者の候補に挙げられています。
皇族以外で、漆塗木棺に入った人物としては、埼玉県行田市の八幡山古墳が挙げられます。こちらの被葬者については、地方豪族の子女が、采女(うねめ)として都へ送られ、天皇の側室として寵愛を受け、最高位まで登った人物、聖徳太子の側仕えとして活躍し、太子没後に武蔵国造に任じられた物部連兄麻呂とする説などがあります。
このように、漆塗木棺は、皇族や身分の高い人物の古墳に見られる重要な要素でした。漆塗木棺が設えられた浅間山古墳もまた、非常に高い身分を有した人物が眠っていたと考えられます。
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