■妙見菩薩(みょうけんぼさつ)
妙見菩薩は北辰菩薩とも呼ばれ、北辰(北極星)を神格化した、国家鎮護・招福攘災・豊穣・長寿の神です。「妙見」は優れた視力の意で、航海の先導や物探し、特に眼病平癒に霊験があるとされます。
北辰信仰は中東から中国に伝わり道教に取り込まれ発展したとも考えられています。中国では北辰を天帝とし、周囲の星々を天帝の住居「紫微宮(しびきゅう)(紫微垣(えん))」、北極星を含む5星を天柱と呼びました。北斗七星は天帝の乗物とされ、後には北辰と同一視されます。
中国で仏教と結びつき生まれたのが妙見菩薩です。そのため、菩薩と呼ばれていますが、仏教では弁財天や大黒天と同じ天部の仏神として位置付けられます。日本では8世紀中葉の正倉院文書に妙見菩薩の記録があり、『日本霊異記』に記述があるほか、平安京遷都後に天皇が年中行事として妙見菩薩に御燈(ごとう)を行ったと伝えられ、主に密教(後に日蓮宗)で信仰されました。
鎌倉時代、千葉一族は宝治(ほうじ)合戦(1247年)で敗れ勢力を減じました。千葉氏は一族を立て直し結束を深めるため、妙見菩薩を信仰するようになったと考えられています。
14世紀成立の『源平闘諍録(とうじょうろく)』によると、平将門が小貝川で平良兼と戦った際、小さな童が現れ、将門を先導して川の対岸に渡し、落ちた矢を拾い与え、将門を勝利に導きました。この童は、五星の北辰、十一面観音を本地仏とする妙見大菩薩を名乗り、将門が正直なので護った、信仰するなら上野国(群馬県)花薗寺(息災寺・妙見寺)から迎え、今後は九曜(千葉氏の家紋)を笠印とするように、といって消えました。将門は妙見菩薩を信仰し東国8国を従えましたが、正直で無くなった為に妙見菩薩の加護は将門の叔父で千葉氏の祖である平良文に移ったと、千葉氏に伝えられているとしています。
妙見菩薩像は平安時代までは吉祥天に似た姿だったと伝えられますが、千葉では13世紀後半から甲冑を着た童形の妙見菩薩像が作られるようになります。その姿は3種あり、白井市神々廻旧在の13世紀後半の妙見菩薩立像は、両手で剣を突き立て玄武(北の守護神)の上に立つ姿で、同種の像で最古級と考えられています。個人蔵のため3Dプリンターで模型を作成し、郷土資料館で展示しています。
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