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歴史資料館 連載三八〇

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千葉県鋸南町

■頼朝の暗殺者
石橋山(いしばしやま)で敗れた源頼朝(よりとも)は治承四年(一一八〇)、八月二十九日、安房に逃れ、猟島(りょうしま)(鋸南町竜島)に上陸したと言われます。
そこから山間を通り長狭(ながさ)(鴨川市)に向かいます。そこで、平家方の地元の豪族である長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)が頼朝の宿舎に夜襲をかけますが、味方の三浦一族が撃破。常伴は敗死し、頼朝は一命をとりとめました。古戦場は現在、鴨川の一戦場(いっせんば)として公園になっています。
その後、房総はもちろん坂東のほとんどの豪族たちを味方に引き入れた頼朝が、鎌倉入りを果たしたのが、十月六日です。わずか一ケ月弱の大逆転劇でした。
さて、その再起のきっかけとなった一戦場の戦いですが、実は後日談があるのです。
鎌倉を源氏再興の本拠とした頼朝は、翌年の養和元年(一一八一)七月二〇日、鶴ケ岡八幡宮を造営し上棟式(じょうとうしき)をとりおこないました。
式典を終えて退出した頼朝は、従っている供奉人(ぐぶにん)(お供)の中に、見なれない男が混じっているのに気づきます。「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、その丈(たけ)七尺余りとありますから二メートル以上の大男です。頼朝に近づこうとしきりに前へ前へと出ようとしています。
下河辺行平(しもこうべゆきひら)が取り押さえてみると、その男は、柿色の直垂(ひたたれ)の着衣の下に腹巻(はらまき)(鎧(よろい))をつけ、髷(まげ)に名札をつけていました。名札には「安房国故長狭六郎常伴が郎党左中太常澄(ろうとうさちゅうたつねずみ)」と書かれていました。
長狭常伴の仇(あだ)を討つため頼朝を狙(ねら)った常伴の家来だったのです。
行平が理由を聞くと、「昨年主人が誅殺(ちゅうさつ)され、我らは流浪の身となった。以来、宿意(しゅくい)を晴らすべく、機会をうかがっていた。名札をつけていたのは、討(う)たれて死体となった時、名を知ってもらうためだ」
安房の武士の心意気を示す逸話として、「吾妻鏡」にも書き留められたのです。
式の当日でもあり、左中太はいったん梶原景時(かじわらかげとき)に預けられ、翌日、片瀬川(かたせがわ)で斬首されました。

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