■戦国動乱、妙本寺の運命3
天文(てんぶん)年間後半、北条氏は執拗(しつよう)に内房沿岸、特に妙本寺周辺に襲来しました。里見義堯(よしたか)は、金谷城を整備し、腹心の正木時忠(ときただ)を配置しました。義堯の配慮(はいりょ)か、妙本寺の日我(にちが)の金谷城への避難は日常化し、貴重な聖教類を金谷城へ運び込み避難させることにしていました。
天文二十二年(一五五三)六月二十六日、日我は「房州に逆乱相起(ぎゃくらんあいおこ)り」と記録しています。実は妙本寺に同年同月同日の制札(せいさつ)が残っています。北条氏康(うじやす)の制札です。氏康は小田原北条氏三代目で、相模(さがみ)の虎とも呼ばれた歴戦の戦国大名です。氏康はこの日、北条水軍を率い、安房へ侵攻(しんこう)、妙本寺を支配下に置いたのです。
しかし、北条氏の襲来なら、なぜ日我は「房州逆乱」という言葉を使ったのでしょう。ここに氏康のしたたかさがありました。氏康は、自軍の侵攻と同時に、内房の反里見勢力に手を伸ばし、反乱、撹乱(かくらん)を勧(すす)めていたのです。
蜂起(ほうき)したのは湊川上流の峰上(みねがみ)城(富津市)にたむろする吉原玄番助(よしわらげんばんのすけ)と二十二人衆、古くから内房、現在の鋸南周辺を勢力下にしていた内房正木(うちぼうまさき)一族、正木兵部大輔(ひょうぶたゆう)らです。皆、里見氏侵攻に良からぬ思いを抱く在地土豪(どごう)たちです。
日我は金谷城に避難しますが、七月十三日夜、忍者のような特殊部隊が侵入し、城に火をかけました。金谷城は兵火に包まれ、避難させた妙本寺の聖教類など貴重な書物が燃えてしまいました。日我は弟子らに守られながら城を脱出、浮島(うきしま)に避難したと言います。海上を逃げる小舟の上から燃え盛る金谷城を見る日我の心中は、いかばかりだったでしょう。
それから、日我は、岩井(南房総市富山)の山間部を転々とし、数年は妙本寺に帰ることができなかったと言います。しかし、こうした逆境の中、日我は「いろは字」という書物を執筆(しっぴつ)し出します。日我の宗教者としての神髄(しんずい)、情熱が、ここから発揮(はっき)されることになります。(つづく)
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