■孝子の碑
館山市国分に孝子塚碑(こうしづかひ)というものがあります。これは平安時代初期に、この地に暮し、親孝行で朝廷(ちょうてい)から表彰された伴直家主(とものあたいやかぬし)という人の墓碑です。
「続日本後記(しょくにほんこうき)」の承和(じょうわ)三年(八三六)十二月七日の条に、次のようなことが記されています。
安房国の人、伴直家主は、常に父母に孝養(こうよう)をつくす心優しい人です。両親が亡くなると、自分の生活を切りつめて立派な墓所を建て、両親の像を作り、生きている時と同じように食事を供(そな)え、供養(くよう)をおこたることがありません。
このことが都の朝廷まで伝わり、朝廷から孝子として表彰され、生涯、税を免除(めんじょ)され、位も授(さず)かったそうです。
安房国の誇りとして永く伝えられることとなった家主ですが、月日の流れとともに、しだいに人々の心から忘れられていきました。江戸時代には家主の墓さえどこなのかわからなくなっていたのです。
このまま忘れ去られてよいのか、孝道が廃(すた)れた世にしてはならないと、立ち上がった人物がいます。それが武田石翁(たけだせきおう)でした。
安房の三名工の一人である元名村の石工で、寺社や個人宅に数々の石彫作品を残した名工です。
石翁はまず家主が葬(ほうむ)られた塚を探し出します。そして彼を顕彰(けんしょう)する立派な石碑を建てようと発起(ほっき)します。趣旨(しゅし)を説(と)いて寄付を募(つの)りますが、思うように集まりません。ようやく建碑にこぎつけたのは、発起から十年後のことでした。
つてをたよって著名な文化人らに碑の題字や家主の肖像画を依頼(いらい)し、石翁がそれを石碑に刻(きざ)みました。嘉永三年(一八五〇)、石翁七十二歳の時です。
さらに翌年には、孝子父母の碑を国分寺(こくぶんじ)に建てています。両親の墓前に手を合わせる家主の姿が刻まれていますが、これは石翁自身が描いた図です。
石翁一代の美挙として、こちらも語り継がれていかなければならない功績(こうせき)です。
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