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歴史資料館 連載三八七

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千葉県鋸南町

■妙本寺と里見氏
吉浜の妙本寺(みょうほんじ)は建武二年(一三三五)開創と伝わる日蓮宗の寺院です。遠く九州まで末寺組織が広がり、天皇家とも関わりがあった安房の名刹(めいさつ)です。その妙本寺ですが、実は戦国期の動乱に翻弄(ほんろう)され続けた寺院でもありました。
房総の戦国大名は里見氏。その里見氏の内紛(ないふん)や里見氏の宿敵である対岸相模の北条氏との抗争(こうそう)に妙本寺が重要な位置を占めることになります。その理由は海岸高台にある妙本寺の好立地にありました。
安房の南部から勢力を拡大していった里見義通(さとみよしみち)は、永正十一年(一五一四)弟の実堯(さねたか)を次将として北郡(きたごおり)(現在の鋸南町あたり)に攻め入りました。鋸山の向こうは上総国。上総は真里谷武田(まりやつたけだ)氏や内房正木一族が勢力を保持しており、里見にとっては足がかりとしたい地域でした。
この時、妙本寺が里見軍の陣所(じんしょ)となります。妙本寺の立地からすれば、ここが海上や保田方面も見渡せる最重要ポイントであり、争奪(そうだつ)の舞台となったということです。この時、妙本寺は大破(たいは)したと伝わります。以後、妙本寺は実堯が眼代(がんだい)(代官)となり常駐し、里見の砦(とりで)のような形となっていきました。
里見義通のあとを継ぎ、当主となった嫡子(ちゃくし)の義豊(よしとよ)は、稲村城(いなむらじょう)(館山市)を居城としていましたが、この北郡あたりは引き続き、叔父にあたる里見実堯、そして正木通綱(みちつな)に掌握(しょうあく)させていました。
ところが、天文二年(一五三三)、義豊は、実堯と正木通綱を稲村城に呼び寄せ、だまし討(う)ちにします。存在を高める実堯と有力豪族正木通綱が手を組み、義豊の支配力を脅(おびや)かし始めたことへの危惧(きぐ)が、義豊の決起となったと考えられています。
この知らせを聞いた実堯の嫡子、義堯(よしたか)は、上総に逃れ、百首城(ひゃくしゅじょう)(竹岡)に入ります。ここにいとこ同士による里見家内紛が勃発(ぼっぱつ)します。そして妙本寺がまたも最重要地として舞台に上がるのです。(つづく)

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