■戦国動乱、妙本寺の運命2
天文四年(一五三五)十月十四日、里見義堯(よしたか)と日我(にちが)は妙本寺で対面しました。義堯は、まず御影像(みえいぞう)(日蓮聖人像)を拝み、法華経(ほけきょう)の本質や功徳(くどく)、妙本寺に受け継がれた法灯(ほうとう)や諸門流の違いなど、自身の疑問や考えを日我にぶつけていきます。日我はこれに真摯(しんし)に受け答えしていきます。里見家は曹洞宗(そうとうしゅう)で、もちろん義堯は日蓮宗信者ではありません。ところが、日我は驚きます。「私は仏法を学んでこのかた、多くの人と法華問答(ほっけもんどう)をしてきたが、俗人(ぞくじん)でこれほどの賢者(けんじゃ)は、いまだかつて聞いたことも会ったこともない」と。
義堯はさらに、こう問います。「私はこれまで戦をし、多くの人の命を奪って来た罪深き人間である。そんな私でも法華経を信じたならば、成仏(じょうぶつ)できるのか」。これに対し、日我は、経文を引用し必ず成仏できると答えました。義堯の切実な問いに明確に答えてゆく日我に、義堯は感じ入ります。
日我はこの時の問答を「堯我問答(ぎょうがもんどう)」と題して記録し、後世に残しました。お互いの学徳、見識(けんしき)の高さを認め合った二人は、以後、領主と僧侶の立場を越えた深い絆(きずな)で、親交を深めていきます。と同時に、里見氏と妙本寺の関係も深まっていったのです。
さて、義堯は上総進出の足がかりとして、小弓公方足利義明(おゆみくぼうあしかがよしあき)と組んで上総真里谷武田(かずさまりやつたけだ)氏の内紛(ないふん)に介入(かいにゅう)、内紛のもう一方を支持する北条氏と手を切ります。以後、里見北条は、宿敵(しゅくてき)として戦いを繰り返すことになるのです。
妙本寺には天文年間後半の北条氏の制札(せいさつ)が五通残されています。制札とは、ここで乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を禁じると自軍の兵に知らしめたお触(ふ)れです。つまり、北条軍が海を渡って安房へ攻め入り、妙本寺が制圧(せいあつ)されたことがたびたびあったことを物語っています。沿岸高台の好立地(こうりっち)が戦略上の標的(ひょうてき)にされたのです。北条氏のたび重なる夜襲(やしゅう)に、日我は、昼は妙本寺、夜は金谷城に避難(ひなん)という生活が続きました。
そして天文二十二年(一五五三)、妙本寺の日我を最も苦しめた「房州逆乱(ぼうしゅうぎゃくらん)」が勃発(ぼっぱつ)します。(つづく)
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