■長南開拓記(59)
~“古墳時代”の終わり~
六世紀末~七世紀初頭、前方後円墳の新規築造が停止されました。古墳の墳形の中でも、前方後円墳は「天皇陵」をはじめ首長級の大型古墳に多用された特別な墳形であり、その規制にはヤマト王権の政策転換が強く関わっていると考えられます。これ以降、畿内の有力者の墳墓は方墳や円墳が主流となり、「天皇陵」においては八角形墳という特殊な墳形も採用されます。地方においても同様の流れを辿っていきますが、この時期の古墳は「終末期古墳」と呼ばれ、律令制による中央集権国家への移行期において、特徴的な存在と言えます。
房総では前回紹介した「最後の前方後円墳・浅間山古墳」(栄町)の存在など、若干のタイムラグが認められますが、基本的な流れは変わらず、岩屋古墳、(栄町/印波国造)、割見塚古墳(富津市/須恵国造)、駄ノ塚古墳(山武市/武社国造)、松面古墳(木更津市/馬来田国造)など、前方後円墳の後継として、大型方墳が造営されています。特に岩屋古墳は七世紀では最大規模の方墳であり、当時の印波国造の権威を誇示していると言えます。ただし、その規模は同時期の天皇陵をも凌いでおり、すでに「墳丘規模=権威の大きさ」の時代ではなくなっていたことも示しています。また、前方後円墳の後継として円墳が主流となる地域もありますが、房総の国造たちは方墳を選択しています。このことについて、七四五年の乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されるまで、ヤマト王権内は蘇我氏が権勢を起こっていた時代であり、蘇我氏の墓とされる古墳が方墳(方墳と推定される石舞台古墳も含む)であることから、方墳の選択は蘇我氏、円墳は非蘇我系勢力との関係が深いことを示しているという説があるように、墳形の選択は当時の勢力図に関係していた可能性があります。ただ、武社には方墳の駄ノ塚古墳がありながら、円墳の山室姫塚古墳も存在しているなど、単純な解釈だけでは理解しきれない部分もあります。
さて、房総がこのような情勢であった七世紀、長南町を含む長生地域では人口が激増したと見られており、次回はその背景について考えてみます。
▽龍角寺古墳群にある岩屋古墳は国の史跡に指定されている、底辺の長さ78m、高さ13.2mを測る三段築盛の墳丘をもった巨大な方墳である。埋葬施設としては墳丘南側斜面に2基の横穴式石室が設けられている。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
<この記事についてアンケートにご協力ください。>