■長南開拓記(72) ~継続か、衰退か~
七世紀後半は律令国家の完成に向けた改革が断行され、古墳時代の制度や仕組みなどが切り替わっていった時期と言えるでしょう。そのうちの一つに「公地公民制」の導入があります。それまでは、それぞれの地方を支配・統治するのは、その地方の豪族であり、彼らはヤマト王権に服属することで、支配・統治する地域の土地や人民の私有を認められる、という仕組みであったと考えられています。しかし、公地公民制では、ヤマト王権の勢力が及ぶ範囲内にある土地や人民は、基本的に大王=天皇に帰属することになります。その仕組みの中では行政単位として令制国(以降「国」と呼ぶ)が設定され、さらに国の下に郡(七世紀後半は「評」)を置かれます。国は中央から派遣された国司が統治し、豪族は郡司として郡と統治と徴税を任されます。人民には口分田として耕地が支給され、税が課されますが、そのために戸籍や計帳が作成されています。ただし、これらは大きな改革であるだけに、制度として一応の完成形を見るのは、八世紀に入ってからと考えられます。
さて、考古学的な成果では、千葉県では主に北総台地において、六世紀後半に出現し九世紀頃まで存続する集落跡が数多く見つかっています。また、七世紀後半~八世紀に新たに出現する集落跡もあるので、古墳時代後期に起こった房総の人口増は、奈良・平安時代も継続していったと見ることができます。しかし、長生地方の場合は、今泉遺跡のように検出した遺構・遺物が古墳時代後期のみで、奈良時代に継続しない事例や、根畑遺跡(芝原)や中原遺跡(茂原市猿袋)のように古墳時代後期から奈良時代に継続するが、奈良時代に入ると住居跡の検出数が減少し、そのまま途絶する事例しか確認されていません。もっとも、古墳時代後期においても、横穴墓築造数の激増から、この地域の人口増を読み取ることができたのですが、奈良時代には墓制が変わり、横穴墓の新規築造は停止してしまいます。したがって、長生地方の人口増の継続を示す考古学的な資料は、今のところ見つかっていない、ということになります。
根畑遺跡の奈良時代の住居跡から出土した石製紡錘車。繊維を撚り合わせて糸を紡ぐための道具。糸を織って作る布は生活必需品であると同時に、律令制の下では調として納める税でもあった。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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