■長南開拓記(61)~長生型横穴墓~
遺骸を安置する玄室と通路となる羨道に、一・五~二メートルほどの段差を設ける高壇式横穴墓は、段差を設けない非高壇式から段階的に変化したのではなく、唐突に発生したように見受けられます。その出現時期については六世紀末~七世紀初め頃に絞り込まれており、出現以降は同時多発的と言えるほどに、短い時間幅の中で展開していったものとみられますが、房総特有の形態として普及したにもかかわらず、その発生起源や普及した理由については、明らかになっていません。
高壇式横穴墓と言っても、玄室天井形、平面形、棺台・棺座の有無や数など、それぞれ地域色がありますが、その中で「長生型横穴墓」と呼ばれる特徴的な一群の存在が知られています。その基本的な形態は、まず、玄室天井が寄棟形もしくは切妻形の家形天井をしており、また、玄室の長辺方向に出入口を設ける「平入」で、その前方に羨道が付くため、T字の平面形をしています。その名のとおり、長生地域では普遍的に見られますが、その他の地域では極めて少数か、もしくはまったく確認されていません。ただ、長生地域でもその分布密度は墓群によって差異があり、例えば、長柄町の千代丸・力丸横穴墓群と長柄横穴群は谷を挟むだけの位置関係で、どちらも高壇式だけで構成されていますが、千代丸・力丸がほぼ家形天井で占められるのに対し、長柄横穴群ではアーチ形天井が最多となっています。長南町の米満横穴墓群もアーチ形天井が最多ですが、その中にあって家形天井だけの支群も存在します。天井形の選択は、被葬者集団の系譜や地位など、様々な要素に起因することが考えられますが、まだ解明されていません。
この家形天井・平入の横穴墓は六世紀末頃から出雲地方東部で普及する形態ですが、高壇式ではないことを除けば、長生型と非常によく似ています。この家形・平入の形態が出雲から長生地域に伝播し、独自型に変容したと考えることは、それほど不自然ではなく、さらに想像をたくましくすれば、この形態の墓を継承する被葬者集団の、まとまった移入があったとも考えられます。
高壇式横穴墓の隔壁(左)と長生型横穴墓の模式図(右)。この地方で高壇式が発生・発達した理由は明確ではないが、適度に硬く、かつ掘削しやすいこの地方の岩盤の性質が、高壇式の築造に適した環境を提供していることは確かである。
※写真・図は本紙をご確認ください
(町資料館 風間俊人)
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