長南開拓記(62)~ムラはいずこに(1)~
古墳時代後期~終末期において、長生地方では墓はたくさん見つかっているが、それを造営した人々のムラの跡がほとんど見つかっていない、という話は以前にもしました。隣接する山武地域では、古墳後期から平安前期まで存続する集落が複数存在したことがわかっていますが、長生地域でも、墓域たる横穴墓群の付近にそれを造営した人々のムラが存在し、しかも、横穴墓の基数から見て、大規模な集落が複数あったような状況でなければ、極めてアンバランスであることは言うまでもありません。
山武地域では古墳時代後期に形成が始まった集落跡は、奈良時代を経て平安時代前期まで存続する事例が多く、一つの遺跡で検出した竪穴住居跡も数百軒規模になります。一方、長生地域では、古墳時代後期の竪穴住居跡がまとまって検出した遺跡でも、奈良時代に入ると竪穴住居の数が激減、もしくはまったく検出しなくなり、竪穴住居跡の総軒数も多くて三〇軒程度と、まったく異なった様相が見えてきます。それでは、両地域で大きく違う条件は何かと言うと、山武には古墳時代人が好む谷津田を望む広い台地があるのに対し、長生にはこうした地形がほとんど見られず、集落跡は低地の中の微高地や丘陵裾部で見つかっています。このような微高地や丘陵裾部の総面積は確かに広いですが連続した広がりは持っていないので、そこに形成される集落も面的な制約を受けることになります。また、根畑遺跡(芝原)のような高台であっても、あくまで丘陵の一部にある狭い平坦面なので、面的な制約は変わりません。加えて治山・治水技術の未発達な当時においては、微高地は水害、丘陵裾部は土砂崩れのリスクが、現代よりもはるかに高かったと思われ、台地上のように長期間同じ場所に集落を存続させることが難しかったと考えられます。その意味で、当時の長生地域は決して開拓に適した立地ではなかったと言えますが、それでも、この時代に人口が急増したというのであれば、やはり大規模集落は存在したと思われます。次回はそのあたりを掘り下げたいと思います。
今泉遺跡の竪穴住居跡群。調査地点は丘陵裾部の先端にあたり、目の前に本台川が流れているなど、古代集落としての立地は決してよくない。それでも竪穴住居を建替えながら、人々はそこに住み続けた。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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