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ちょうなん歴史夜話

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千葉県長南町

■長南開拓記(64)~開拓者が来た~
以前にも話しましたが、四~五世紀の長生地方においては、能満寺古墳、油殿一号墳がある埴生川下流域(長南町東部~睦沢町北部一帯)が、中心的な地域であったと考えられます。しかし、六世紀後葉~七世紀になると、長生地方に多くの人が流入し、それに伴い開墾地も一気に広がったと考えられ、特に、大規模横穴墓群が密集する一宮川中流域(長柄町東部~長南町豊栄地区)では、その傾向が顕著であったと思われます。前回、米満横穴墓群の造営母体として、本台・今泉地区に大規模集落が存在した可能性について話しましたが、移住してきた集団が集落を形成し、そこを拠点として開墾地を広げて、墓域である横穴墓群も拡大していったという流れが、新しく人が入った地域で起こっていたことが想定できます。
こうして長生地方では、六世紀後半から、特に七世紀に人口は大きく増えて、開墾地も広がったと思われますが、長生地方には横穴墓がない地域もあり、そうした地域はどういう状況だったのでしょうか。まず、海岸平野ですが、当時の海岸線は現在より二~三キロメートル内陸寄りでしたが、陸地の安定化は進んでおり、ここで活動する人も増えたと思われます。ただし、海岸平野は水の確保が難しく、開墾があったとしても散発的な状況であったと思われます。次に、茂原市~長柄町北西部の台地上ですが、この一帯は標高も高く"山深い"地域です。山武地方でも"山深い"台地の奥部に開発の手が及ぶのは奈良~平安時代であり、長生地方でも同じような状況であったと考えられます。また、埴生川・瑞沢川の上流域一帯や、蔵持南部も横穴墓の空白地帯となっていますが、ここも"山間部"として、開発の手が及ばなかったことが考えられます。
ここで気になるのは、以前紹介した『日本書紀』の「伊甚屯倉説話」です。説話が史実そのものではないにしても、長生地方を支配域としていた豪族は、何らかの理由で力を失い、以降はヤマト王権の支配が直接及ぶ地域になっていたのかもしれません。そのような状況が、こうした"人の流入"を可能にしていたとも考えられます。

造成前に大規模横穴墓群があった緑ヶ丘リゾーン(茂原市)。横穴墓群の母体集落の場所は特定されていない。古代の移住者たちの遺跡が、奇しくも現代のニュータウンとして変貌を遂げた。

(町資料館 風間俊人)

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