■長南開拓記(65)~「三重構造モデル」~
日本人のルーツについては、「日本人の二重構造モデル」という語を耳にします。これは、現代日本人は東南アジア系の縄文人を基層集団として、弥生期に渡来した北東アジア系集団との混血によって形成された、という仮説です。その後、複数の研究者が遺伝子解析などの後続研究を行い、(1)縄文人のルーツも多元的である、(2)弥生時代と古墳時代では、渡来した集団に差異が認められる等、さらに複雑な様相を示すデータも出されています。こうした中で、最近よく耳にするのが、「二重構造モデル」を発展させた「三重構造モデル」です。これは前述の(2)に関係する説で、ゲノムデータの比較では、現代日本人は古墳時代人と近く、古墳時代に新たな渡来集団があり、その渡来集団との混血によって、現代日本人に近い古墳時代人が形成され、現代日本人につながっている、というものです。弥生~古墳時代にかけて、遺伝子に影響を与えるほどの渡来集団が継続して来た、という点はどちらのモデルでも変わりません。しかし、「三重構造モデル」では新たな渡来集団を東アジア系とする点が、「二重構造モデル」との相違点です。
ところで、『千葉県の歴史考古4』には、非常に興味深い記述があります。要約すると、「考古学的な見地から、古墳時代後期は人口が激増した時代であり、それは、大陸からの渡来集団の流入に大きく関係している。渡来者たちには居住地が割り当てられるが、それによって、そこからの移動・再移動を余儀なくさせられる人々が各地で発生し、こうした"玉突き"による流入が、房総地方での顕著な人口増をもたらしたのではないか。」というものです。長南町を含む長生地方も、そうした人々が移住し、膨大な数の横穴墓を造営したのでしょうか。
六世紀前半は、出自が謎に包まれた継体帝の皇位継承や、継体帝崩御後の混乱など、王権が安定しない時代でしたが、六世紀中葉に登場した欽明帝は、継体帝の子でありながら、仁徳帝以来の王統を継承したとされ、王権は再び安定し、そうした背景により、混乱なく"玉突き"が行われたと考えられます。
長生地方の横穴墓は1,200基を超えるが、その形態は様々なタイプがあり、群によってその構成も違う。そうした差異の中に彼らの由来が示されているのだろうか。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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