■長南開拓記(67)~米満の被葬者たち~
米満横穴墓群は総基数一四〇基を超える大規模横穴墓群です。七つの支群に分かれ、さらに各支群は小支群、単位群と細分化できます。米満の調査地点は五一基で構成される第3.支群のうち、一一基で構成される第五小支群にあたり、さらに四つの単位群に分けられます。平成八・九年に行われた発掘調査では、このうちの一〇基が調査されました。
横穴墓は古墳時代後期~終末期に盛行する群集墳の一類型であり、基本的に個人のために築造される前期古墳と異なり、群集墳は一基の墓に何回でも追葬が行える「同族」のための墓です。大規模群である米満の場合、小支群や単位群は、血縁で結び付く「家族」墓の集合体として形成され、その上位の支群は、複数の「家族」墓群の集合体と考えられます。長生地方の高壇式横穴墓は、すでに開口しているものが多く、後世に人や動物が侵入するためなのか、被葬者の遺骨や副葬品といった、墓ならではの遺物が少ない傾向があります。しかし、他地方には遺骨が多く遺されていたため、被葬者構成や埋葬方法が判明している横穴墓も少なくありません。横穴墓完成後、まず、第一号の被葬者が仰向けの「仰臥伸展葬」で埋葬されます。その後は「家族」で死者が出る度に追葬されていきますが、横穴墓が"満員"になった場合は、先に埋葬された遺骨を集骨して、さらに追葬するためのスペースを設けていました。また、遺骨を別の横穴墓に移動する「改葬」を行うこともあり、改葬専用の横穴墓が設けられている場合もあります。
米満の発掘調査でも、人骨片が出土していますが、どれも微細なものであり、"生前の姿"までは分かりませんでした。ただし、四号墓では歯が一五点出土しており、分析鑑定の結果、乳児・三~四歳児・九~一二歳児・一八歳前後の、少なくとも四人の被葬者があったことが判明しています。四号墓は玄室内に左右一対の棺座があり、被葬者たちはそこに順次追葬されたと思われます。同じ単位群の五号墓、六号墓に比べてやや小ぶりで簡素な造りであり、はじめから若年者用の墓として築造されたのでしょうか。
◇4号墓の棺座。
和釘が出土しており、木棺が収められていたのかもしれない。また、わずかながら貝殻が出土しており、房総では希少な貝殻敷きの横穴墓であった可能性もある。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)
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