◆シリーズ 関東大震災と館山
(4)内陸部の被害
これまで、北条・館山といった町場の被害や、富崎の津波被害について紹介してきました。今回は大正15年(1926)に安房郡役所で編さんされた『安房震災誌』等により、内陸部の状況を取り上げます。
館野村では建物の9割以上が全壊または半壊の被害を受け、50名以上の方が亡くなっています。山本堰そばの弁財天社に建つ石碑には、大音響と共に家屋が倒壊し、多くの死傷者が出るなか火災も起こり「阿鼻叫喚(あびきょうかん)の修羅場」であったと記されています。
校舎の大部分が倒壊した山本小学校(現在の館野小学校)では、地震発生時、すでに児童は帰宅していましたが、家屋倒壊により帰宅後の児童7名が亡くなっています。9月28日から始められた露天授業は、当時の児童の回想によれば、寺社の境内や校庭に莚(むしろ)を敷き、家から持ち寄ったみかん箱などを机にして行われたそうです。
九重村も建物の9割以上が全壊または半壊の被害を受け、24名が亡くなりました。村役場や九重駅舎も倒壊しています。特に水田など耕地の陥没・亀裂・隆起が激しく、家畜の被害や練乳工場の倒壊など産業への影響も大きかったといいます。九重小学校は校舎が全壊し、薗の三島神社で露天授業が開始されたのは10月3日からでした。
豊房村では、土地の隆起・陥没や山崩れなどが発生しましたが、建物倒壊は約7割にとどまり、これは茅葺(かやぶき)屋根の建物が多かったためと記されています。豊房小学校は大部分、神余小学校はすべての校舎が倒壊しました。また、畑小学校は倒壊をまぬがれたものの、激震により建物が傾きました。村内では33名が亡くなり、白土の採掘坑や製炭用のカマドの破壊など、産業面での損害も多数ありました。
神戸村では、総戸数の約5割が被害を受け、12名が亡くなりました。村役場や多くの寺社が全壊したなか、安房神社が被害を受けなかったことは、村民を勇気づけました。神戸小学校と洲宮分校はともに校舎の大部分が倒壊し、本校は安房神社と犬石の金蓮院、分校は布沼の東光寺を仮の教室として授業が行われました。
100年前の大震災は内陸部においても、住居や人的被害だけでなく、産業や教育、人々の心に大きな爪痕を残しました。
◆博物館の休館日
・本館・館山城(11月6日、13日、20日、27日)
・渚の博物館(11月27日)
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