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お茶の間博物館 416

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千葉県館山市

■シリーズ 房州の名産品今昔(1)房州枇杷
房州の名産品って何?そんな疑問にお答えするため、今年度は、博物館の収蔵資料から房州の名産品の歴史をご紹介します。
第1回は房州枇杷です。房州は枇杷の栽培に適した温暖な気候で、大消費地である東京に近いこともあり、盛んに栽培が行われてきました。昭和11年(1936)には、富浦町133・0町歩※、岩井町43・0町歩、八束村35・6町歩、勝山町3・8町歩、保田町9・4町歩、那古町6・9町歩、船形町3・0町歩、その他33・4町歩と富浦町(南房総市)を中心に各地で枇杷の栽培が行われました。写真(本紙参照)は枇杷出荷用の木箱の蓋に貼られたラベルです。枇杷の絵と「安房特産」「南無谷枇杷」「両陛下献上」の文字が書かれています。
このラベルを使用した富浦町南無谷(南房総市)の金木熊治氏は枇杷栽培の先駆者で、大正11年(1922)の東京府主催平和記念東京博覧会に出品した枇杷「田中」が最高の金牌を受賞しました。また、この年は枇杷2箱を天皇皇后両陛下に献上しています。
江戸時代、房州の枇杷はそれほど栽培数もなかったこともあって、江戸へは魚とともに押送舟(おしょくりぶね)で運んだそうです。明治期以降は生産量が増加したため、枇杷専用の輸送船が仕立てられ、昭和期には鉄道やトラックでの輸送が増えていきます。
大正期に長崎の茂木枇杷が勢力を拡大すると、房州枇杷はそれに対抗して容器の改良を図ります。昭和2年にそれまで慣行としていた「容器返し」を廃止し、昭和5年には本格的に化粧箱を導入しました。このころから枇杷をそれぞれ京花紙で包み、パラフィン紙を敷紙とし、蓋板・妻板に房州の特産品であることをアピールしたラベルを張るようになっていきます。
なお、館山地区の一部では古くから枇杷栽培が行われていましたが、沼地区の枇杷栽培は金木熊治氏の甥・嗣郎氏によって始められたようです。
昭和39年に作成された千葉燿胤『館山城址後記』附図「城山附近地図」には、城山(館山市館山)の南に数カ所「枇杷」と書かれています。また、県指定文化財の沼サンゴ層の指定地(館山市沼)へ向かう途中には枇杷運搬用のモノレールの跡が今も残っています。

参考文献:月川雅夫『日本枇杷史』平成22年
※1町歩=約9917平方メートル

■博物館の休館日
本館・館山城:5月7日、13日、20日、27日
渚の博物館:5月27日

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〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

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