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市民のひろば「香取遺産」

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千葉県香取市

■vol.208 香取の海と新田開発
香取市北部の広大な水田地帯には、かつては香取の海、香取浦、香取内海などと呼ばれた海がありました。中世頃までは図のように、霞ケ浦、印旛沼や手賀沼を含めた、奥行きのある広大な内海が存在し、漁業や内陸水運が盛んでした。
徳川家康が関八州を治めることとなった天正18年(1590)年、佐原と対岸の牛堀・潮来の間は、敵対する常陸国の佐竹氏との境界紛争地でした。小見川の代官吉田佐太郎(よしださたろう)は、沖之島(島状に点在していた土地の総称)を起点に新田開発を進めて領有を主張し、佐竹氏に所領を奪われた旧江戸崎城主・土岐氏の家臣団を帰農土着させ、新田の開発および境界の監視にあたらせました。
家康は関東入国にあたり新田開発を喜び「沖之島北はすの新田」を「新嶋(しんしま)」と命名しました。年貢の一定期間免除などの特権を与え、寛政17年(1640)までに開発された十六の新田村は新島十六島(しんしまじゅうろくしま)、十六島新田(じゅうろくしましんでん)などと呼ばれています。
その後、利根川の東遷や浅間山噴火などにより土砂の流入量が増え、新田開発がさらに進み、かつての「香取の海」一帯は水田地帯となっていきました。
次第に「水郷」と呼ばれる景勝地となり、東国三社詣と共に、多くの観光客や文人墨客(ぶんじんぼっかく)が訪れるようになります。昭和2年、新聞社主催のアンケートで日本新八景を選定するイベントがあり、水郷之利根保勝会などが投票活動を展開しました。八景には入らなかったものの40万票を集め、利根川として二十五勝に選ばれました。同会は昭和11年に開通した初代水郷大橋のたもとに記念碑を建てました。現在はあやめパーク入口東側に移設されています。

問合せ:生涯学習課
【電話】50-1224

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