■玉姫明神(たまひめみょうじん)記碑 栗源地域の養蚕の歴史
かつて生糸(きいと)は日本の主要な輸出品で、千葉県内でも明治20年代から大正期にかけて、生糸生産のための養蚕(ようさん)が盛んに行われていました。養蚕とは蚕(かいこ)に桑の葉を与え、蛹(さなぎ)に育てて生糸の原料である繭(まゆ)をとるもので、農家の副業として広く普及しました。栗源地域でもこの時期に養蚕が広まり、岩部の台地では蚕の餌となる桑畑が広がり、また農家には指導者によって養蚕が奨励されました。岩部の安興寺(あんこうじ)はこうした養蚕に関わりがあったお寺で、境内にその歴史の一端を見ることができます。
安興寺の山門(さんもん)の脇に「玉姫明神記」と刻まれた石碑が建てられています。大正7年4月建立、高さ2・5mほどの大きな石碑で、碑文は日本寺(にちほんじ)(多古町)の三三二世日淵撰文(せんぶん)によるものです。安興寺では、大正6年4月、養蚕の守護霊神として茨城県鹿島郡軽野村(現神栖市)から蚕霊(さんれい)様を分祀(ぶんし)して境内に蚕霊堂を建立し、玉姫明神と命名して祀(まつ)りましたが、これを記念した石碑となります。
以後、安興寺では毎年4月1日に「蚕霊様」と呼ばれる玉姫明神の祭礼が行われていました。境内には露天商が連なり、本堂前に芝居小屋が掛かるなど、多くの人でにぎわったそうです。時代が進むにつれ養蚕は衰退していきますが、蚕霊様の祭礼は昭和35年ごろまで続いたようです。
他にも、境内には地域の養蚕業の発展に寄与した髙木仁助翁の頌徳碑(しょうとくひ)もあります。昭和30年に建てられたもので、碑文によれば、髙木仁助は明治12年生まれ、群馬県の蚕糸(さんし)学校で学び、長野などの各県で技術者として勤めた後、県内の養蚕組合などで長く養蚕指導の第一線にあったとあります。
蚕霊堂の建物は今も本堂の脇に残されていますが、老朽化が進んだことから、玉姫明神のご神体は本堂に祭られています。左手に桑の葉、右手に生糸束を持った珍しい容姿の像で、元日にはご本尊などとともにご開帳されています。
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