■佐原諏訪神社と諏訪山の景観
佐原駅から南へ500mほど行くと、大きな鳥居と128段ある長い石段が姿を現します。
この石段の途中には、金比羅神社や稲荷社などといった境内末社が鎮座します。また天明3(1783)年、周りに竹が生えていないところに2本の竹が突然生えてきたことを瑞祥(ずいしょう)として歌が詠まれたいわれを誌した雙生竹(ふたもとたけ)碑や、郷土の俳人の句碑などが並びます。
これらの中を登った上に鎮座しているのが、佐原新宿鎮守、諏訪神社です。
社伝によれば、元は伊能村に鎮座していましたが、天正14(1586)年に佐原新宿の開発に際して、現在の諏訪山に奉遷されたと伝わります。
この諏訪山上からの眺望は、『下総名勝図絵(しもうさめいしょうずえ)』(香取遺産vol.211にて紹介)でも取り上げられており「此社景色最佳シ」とも述べられています。
また当社には、当時三大家にも数えられた国学者、小山田 与清(おやまだ ともきよ)が文政3(1820)年、鹿島詣での途中、佐原に滞在した際に訪れています。その道中を記した「鹿島日記」に「こゝよりハ刀根川を打こし。板来(イタコ)。鹿嶋。など眼(マナコ)の中にこもりてみゆ」と諏訪神社からの見晴らしのよさについて述べています。
与清は、境内の雙生竹や、伐られようとしたところ一夜のうちに向きを変えた「かたよりの樅(もみ)」、同じく一夜にして場所を動いた「すれあひの松」について「くすしき(神秘的な)ことどもなり」として、雙生竹の前にあった坊(僧の詰所)にて歌を詠んでいます。
なお、神社境内に坊があるのは、当時、別当寺として諏訪神社を荘厳寺(しょうごんじ)が管理していたためと考えられます。
この佐原滞在の時の縁によるものか、与清は訪問の翌年に建てられた雙生竹碑の碑文を作っています。
佐原の歴史の中において、文化、景観の重要な一角を占める神社です。
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