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わたしのまちの文化財 vol.195 生誕850年 明恵上人(みょうえしょうにん)の足跡

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和歌山県紀の川市

明恵は紀伊国有田郡(有田川町)に生まれた高僧です。鎌倉時代の混乱の世を生き、ひたすら釈迦を慕い厳しい修行を重ねました。宗派は開かず、仏教へ打ち込み、後鳥羽上皇などの朝廷や武家などから帰依をうけました。京都で幼少期を過ごし京都で亡くなりますが、青年期には紀州で修行を行うなど故郷とのつながりはとても深く、各所に明恵の足跡が遺ります。
承安(しょうあん)3年(1173)、平重国(たいらのしげくに)と湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の娘の間に生まれた明恵は、8歳にして両親を失います。有田郡武士団の祖である祖父の宗重をはじめとする湯浅一族に育てられ、京都の神護寺に入り文覚(もんがく)や叔父の上覚(じょうかく)に教えを受けました。16歳で出家し、東大寺で仏教の戒律を学び、仁和寺でも教学に励みました。23歳ごろから郷土で修行に打ち込み、建永(けんえい)元年(1206)、「鳥獣人物戯画」が伝来することで有名な高山寺を後鳥羽上皇から賜り、華厳宗(けごんしゅう)の再興(さいこう)を命ぜられます。
明恵が亡くなってから4年後、高弟喜海(きかい)は明恵を尊び修行の地と生誕地に卒塔婆(そとば)を建てました。後に木製から石製に建て替えられ、現在そのうち7か所は国指定史跡「明恵紀州遺跡卒塔婆」として保存されています。そのなかの星尾(有田市)では、釈迦への思いから天竺(インド)行きを切望していた時、春日明神から渡航を止めるようお告げがあったなど、各所に不思議な伝説があります。
紀の川市での明恵の足跡は、中三谷の春日神社と現在は廃寺の金剛寺にみることができます。江戸時代の地誌『紀伊続風土記(きいしょくふどき)』などには、春日神社の由緒として金剛寺を創建した明恵が、貞応年間(じょうおうねんかん)(1222〜1224)にその守護神として奈良の春日大社から勧請(かんじょう)したとあります。文化4年(1807)に記された「海神春日両社由緒書」では、風景が春日大社の御神体である三笠山に似ており、明恵とともに村が勧進したとあります。春日神社の草創には、春日明神のお告げや明恵が春日大社に参詣していることなど、当時の春日明神信仰との関係も考えられますが、天正13年(1585)の羽柴秀吉による紀州攻めで五社あった社殿や記録類は焼失し、詳細は分かっていません。現在は三社が再興され、金剛寺はその推定地と寺に納められていた経典がその存在を明らかにしています。
紀州の島で拾った石を机に置き故郷に思いをはせた明恵の足跡は、誕生から850年経った現在でも色あせることなく、郷土に遺る文化財や物語として大切に伝えられています。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)

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