華岡家は、青洲の祖父の代から医者を生業とし、その歴史は現在でも引き継がれています。また、江戸時代を中心に青洲の元へは、全国から優れた医学を学びたいものたちが押し寄せました。門人は総数約2,250人にものぼり、医術を学んだ門人は故郷へ帰り、多くの患者を救うとともに医術を広げました。
青洲の住宅でもあり医塾兼診療所である「春林軒」は現在も従来の場所に残されています。主屋(市指定文化財)と蔵は江戸時代の建物で、その他の建物は主屋の移築とともに発掘調査をもとに復元されています。発掘調査は約800平方メートルを対象とし、平成7年度に実施。調査の結果、主屋は一度大きく造り替えられていることが判明しました。建て替えられた時期は、出土した資料から18世紀末から19世紀中頃と考えられ、乳がん摘出手術に成功した時期と合致。成功を契機とした可能性があります。その他、複数の建物の跡が確認されており、こうした調査をもとに現在の春林軒が復元されています。
江戸時代の医塾と聞くと今とはかけ離れたものを想像しがちですが、実はそうではありません。全国から集まったものたちは、入門にあたり身元保証書を提出し、塾名簿である「門人録」に記名されました。また、入学金や先生への礼金、乳がん治療の見学時の授業料などが決められています(入門束脩式)。塾には規則(春林軒家塾掟)があり、学則に従って勉学に励みました。
青洲の教育は、実習と口述が基本であるため、門人たちは言葉をかきとめ、それを写しました。その内容は、多岐にわたり、勉強を終えた門人は免状(矢言)と引き換えに誓約書(奥伝誓約文之事)を提出します。誓約書では、手術のことや秘薬のことをみだりに教えないことを誓約しています。一方、患者は「治療中に何かあっても不服を申し上げません」といった内容の証文を提出します(療治一札之事)。
こうしてみると、江戸時代の医塾や医療は、現在に通じるくらいに完成していたことに気づきます。また、医療の進歩は努力の積み重ねで、麻酔薬についても、多くの医家の研究を青洲がさらに研究を重ねたことで完成しました。
歴史を今に伝える貴重な資料は大切に保管・展示されています。青洲が医学を探求したように、紀の川市が誇る青洲について探求し、今一度、そうした歴史に触れてみると、もっと身近に、もっと誇りに思えることでしょう。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)
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