~里人とともに守り伝える歴史と文化~
修験道の開祖「役行者」が初めて修行を積んだ地である葛城の峰々。和歌山県の友ヶ島から和泉山脈や金剛葛城山系を巡る修験道のストーリーは令和2年に日本遺産として認定され、今年度は5年の節目になります。葛城修験をPRするため、本市を含む4市町合同で公開講座を実施。今年は粉河ふるさとセンターで、11月30日に開催する予定です。講座では、三井寺(滋賀県)の長である福家俊彦長吏と中津川で葛城修験を中心となり支えてきた五鬼家が講演などを行います。
三井寺は、智証上人(814~891、円珍)が開創した天台寺門宗の総本山で、承和12年(845)には、役行者を慕い大峰、葛城、熊野三山を巡礼。修験道と長い歴史があります。葛城修験を行ったことを示す資料として、修行の際に名前と入峰年月日、入峰回数などを記した「碑伝」という木札が中津川行者堂に残されています。最古のものは、慶長13年(1608)三井寺の行者玉林坊が奉納したものです。三井寺の葛城修験は昭和54年に一旦途絶えますが、平成24年に復活。3年に一度は中津川に入峰し、行者堂で採灯護摩供を行っています。
一般的に修験道の修行は、深い山の中で行いますが、葛城修験の地はその地形から峰々の近くに里人たちが暮らし、他の修験に比べて集落との関わりが強く、修験者たちの修行は里人たちが支えてきました。
第7番経塚がある中津川地区は、葛城修験の「中台」と呼ばれ、本山派修験(京都聖護院)の重要な儀式である「葛城灌頂」(修験者に位を授ける儀式)が行われる場所です。そうした場所を守ってきたのが、役行者が葛城修験を開いた時に付き従った前鬼の子孫「五鬼家」や地区の里人です。
江戸時代の地誌「紀伊続風土記」には、前鬼の5人は、聖護院の宮より官名を賜ったと記載されています。幕末期の嘉永7年(1854)には、異国船退散のため聖護院宮雄仁法親王以下約600人が2月19日に中津川へ入峰。25日には行者堂にて祈祷を行っています。また、戊辰戦争の際、聖護院宮雄仁法親王が海軍総督に任じられ、中津川から五鬼家の家筋である五家が大阪まで出陣し、後に賞状を賜っています。
毎年4月の聖護院と3年に1度の三井寺の採灯護摩供には、大勢の修験者が中津川の地を訪れます。地区の人たちは、修験者のために清掃や行事の準備などを実施。こうした日々の積み重ねにより、1300年もの間、葛城修験が守り、伝えられてきたのです。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)
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