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わたしのまちの文化財 vol.198 簀戸国次(すどくにつぐ)の刀

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和歌山県紀の川市

紀の川市神領に所在する海神社に伝わる宝刀が一振りあります。全長50・1cm、刃長(はちょう)37・6cm、刀身(とうしん)中央より切っ先側に反りの中心がある先反(さきぞ)りが強く踏ん張りが付いた姿で、身幅(みはば)は広めですが、重ねは薄いのが特徴です。銘には「紀州池田庄浦上前国次作」と製作者の名前と、不明瞭であるが年号として「明応四年八月吉日打之」と刻まれています。市内には国次の刀が数本残されていますが、一派の現存刀は極めて少なく、作刀と技量の点では紀州鍛冶随一と言われています。
国次は、代々粉河寺門前において粉河寺に仕えた刀工で、国次の銘の国構えの中に(※)形に刻んだ形が簀戸(割竹を対角線に組んで小枝を編んだ簡素な扉)に似ていることから、簀戸国次と称されました。国次は入鹿鍛冶と呼ばれる刀鍛冶の系統です。紀伊続風土記には『古今鍛冶考』という書に紀伊国鍛冶系図が載せてあり、そこには、大和の国の住人、包貞の子、本宗が鎌倉時代末に紀伊国牟婁郡入鹿荘(三重県熊野市紀和町)で刀剣を作り、入鹿物と呼ばれ盛んに入鹿銘の刀を作ったことが記録されています。現在伝わる入鹿鍛冶の刀は、地金(じがね)の柾目肌(まさめはだ)の中に肌に沿って縞のような筋が入る「入鹿肌(いるかはだ)」が特徴です。この入鹿鍛冶から分かれて15世紀の中頃室町時代初期、初代国次の父則実が粉河に住み、作刀を始めています。国次の刀は入鹿鍛冶の特徴を受け継ぎ、海神社の宝刀も、黒い縞の「入鹿肌」の特徴が顕著に表れています。
初代国次が作刀を始めた頃、紀北地域は南北朝の争乱の舞台となり、各地で武力衝突が頻繁に起こり、刀剣の需要が急速に高まりつつあったと考えられます。その後、国次は5代に渡り続き、代々国次の名を刻み刀を作り続けます。おそらく粉河寺や根来寺に刀を供給したのでしょう。天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めの際、粉河寺は炎上し、国次を含めた粉河鍛冶は甚大な被害を受けたのか、粉河寺門前での作刀は確認できなくなります。その後、江戸時代に入り粉河寺の復興後、門前では代わって鋳物が多く作られ始めました。太平の世、仏具である鐘などの鋳物を作り、粉河鋳物は全国に名を轟(とどろ)かせることになります。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)

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