紀の川の上流域は伏流水に恵まれ、そこで生産される良質の米を原料に造られる酒は、江戸時代、特に川上酒と呼ばれ名声を博していました。川上酒は伊都郡中飯降村で醸造がはじまり、その後妙寺、笠田を本場として、名手・粉河から岩出付近に至る紀の川沿岸一帯で造られたと記録されています。特に風味が優れていたため、紀の川の水運を利用して京や大阪、江戸にまで運ばれていました。「東三谷の亀屋の酒屋江戸の奥まで名がとどく」と民謡で歌われるほどでした。
京都嵐山にある松尾大社は酒造りの神(大山咋神(おおやまくいのかみ))を祀る神社として全国の酒造家から崇敬を集めていることで有名ですが、その社頭の鳥居横の目立つ場所に一対の常夜灯が置かれています。「天保九戊戌年八月吉日、紀州伊都郡酒造中」の文字と伊都郡酒造仲間31人の名前が刻まれています。名手組と粉河組は、上那賀郡として、寛永15年(1638)以降伊都郡の管轄下におかれ、両組の酒造家もここに記されています。また、紀の川市藤崎の名勝藤崎弁天の社頭、名手川の河口、紀の川と交わるところにも、水運の安全のため常夜灯が置かれています。「干時天保十四卯七月建之為舟中安全伊都郡醸酒家中」の文字が刻まれ「世話人名出左右衛門藤田源助」とあり、松尾大社に刻まれている酒造家と縁者と思われる同姓の2人の名が記されています。川上酒の隆盛と江戸後期、紀の川流域の酒造家がいかに多かったか分かります。
江戸幕府では米穀を大切にしたことから、造酒には一定の制限をかけてその量を厳しく統制していました。天保11年(1840)「酒屋諸事控」によると、粉河・名手2軒の酒造家があり、合わせて2,000石の造酒株をもっていたことが記録されています。川上酒全体では16,300石で紀州藩全体のおよそ2割の株を持っており、地産の良質な米と和泉葛城山系の伏流水がある紀の川上流域は、紀州藩随一の造酒処であったといえます。また粉河の酒造家は酒だけでなく、鋳物や団扇なども取り扱い江戸に送り、金銭の貸付など商社のようなこともしていました。
今では川上酒を造酒する酒造家は紀の川市には残っていませんが、昭和頃、瓦屋根の酒蔵が並ぶ風景が紀の川流域の町並みの一部として残っていたことを思い出す人もいるのではないでしょうか。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)
<この記事についてアンケートにご協力ください。>