◆一の橋(いちのはし)(高野山)
一の橋は「大橋」ともいわれる奥之院の入り口の橋でありますが、この地域は一の橋とよばれています。『紀伊国名所図会(きのくにめいしょずえ)』には一の橋について、「この橋から御廟に至るまで、道の左右に公家、武家をはじめ、仏教僧はもちろんのこと、天下の諸名家、農民、商人の男女、力士・俳伶(はいれい)」(芸人、音楽家)の類まで、その碑碣(ひけい)(碑は形の四角なもの、碣は形の丸いもの)が累々として、幾千万あるのか数がわからない。」というように記されています。
富貴の名迫次郎衛門伊光(なさこじろうえもんこれみつ)は一の橋の両たもとに、元文二年(1718)閏(うるう)十一月二十一日と刻んだ石灯籠を建立、寄進し今も残されています。
昭和初期、この辺りに稲岡卯兵衛(いなおかうへえ)、門脇屋卯兵衛(かどわきやうへえ)という人が凍豆腐を作り販売していました。その二代目が稲岡卯一郎といい、アララギ派の歌人でした。斎藤茂吉(1882~1953)とも親交があり、よく茂吉が稲岡さんの家に遊びに来られていたようです。
凍豆腐は「凍み豆腐」「高野豆腐」とも呼ばれる豆腐の一つで、豆腐を寒気にさらして乾燥させることで、長期保存が可能となっています。『紀伊続風土記(きいしょくふどき)』には「中世已来専(いらいもっぱ)ら天下に流布す」と記され、また良品製造の条件は「寒い夜に短時間で凍らせること」でした。令和5年、和歌山県日高郡日高川町の児玉正氏の家の納屋から凍豆腐の木箱が見つかりました。この木箱に凍豆腐が千個入ります。
由来のある高野山に寄贈してくださることになり、現在は高野町中央公民館で保管しています。
教育委員会
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