■第47回 日比谷図書館の蔵書疎開と志木
太平洋戦争末期、貴重な文化財が散逸・焼失することを防ぐため、所蔵物の疎開が計画され、東京をはじめ地方都市部の多くの図書館では貴重本を中心に疎開が実施されました。志木市内(当時は「志紀町(しきまち)」)でも日比谷図書館の蔵書が疎開しています。
昭和19年末~20年初、当時の日比谷図書館長・中田邦造(なかたくにぞう)氏が主導して40万冊を疎開させました。その中には既存の図書館蔵書だけでなく、急遽、図書館が個人所有の貴重本などを買い上げたものも含まれています。
日比谷図書館の疎開先は、北足立郡志紀町(現・志木市)の西川家倉庫や西多摩郡多西(たにし)村(現・あきる野市)の村長宅・寺院など比較的小規模な場所(8か所)に分散されました。これらの場所への運搬には、トラックのほか、交通事情が悪化するなかでは大八車(だいはちぐるま)やリュックサックなど人力に負うところも多く、旧制中学生などがその役割を担っていました。
昭和19年4月、西川武吉郎(にしかわぶきちろう)氏(現当主・西川和人(にしかわかずひと)氏の祖父)は日比谷図書館と倉庫賃借契約をし、図書館から「土蔵管理事務」の嘱託を受けました。西川家倉庫には図書館の蔵書や買上本など約10万冊が保管され焼失を免れたものの、都内の日比谷図書館は空襲により全焼し、蔵書20万冊余りが失われました。
戦後、米軍進駐軍により西川家の疎開蔵書が一時接収されましたが、西川家の疎開蔵書の中には、旧満州国関連の図書・資料があり、調査のために接収されたと考えられています。接収された図書は後日、米軍から日比谷図書館に返却され、京橋図書館の地下倉庫に一時保管されていましたが、昭和24年の台風により地下倉庫が浸水し、一部の疎開図書が被害を受け廃棄するという道を辿っています(西川家倉庫は非公開です)。
(参考図書:金高鎌二(かねたかけんじ)著『疎開した40万冊の図書』、読売新聞(令和3年3月28日付))
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