■安藤文澤(あんどうぶんたく)の医療活動
~医道の師 小室元長(こむろげんちょう)・元貞(げんてい)への手紙から~
晩秋(ばんしゅう)を迎え、空気が乾燥し始めると、インフルエンザをはじめとした感染症が流行し始めます。
現在では、解熱剤や咳(せき)止めといった対処療法に加え、病気の株を体内に取り入れて免疫をつくる「予防接種」が一般化しており、感染症の流行を抑えています。
幕末から明治期にかけて活躍した毛呂山の医療人安藤文澤は、この予防接種という医療行為の普及に尽力した人物です。
阿諏訪出身の文澤は、文政(ぶんせい)8年(1825)19歳の時に、武蔵国番匠村(むさしのくにばんしょうむら)(現在のときがわ町)の名主(なぬし)で、産科を中心に様々な医学知識を持つ小室元長に弟子入りし、医学を修めました。
そして、文政12年(1829)に江戸へ出て、翌年には鳥羽藩(とばはん)(現在の三重県)に召し抱えられた文澤は、医療活動の舞台を江戸、そして伊勢志摩へと移していきます。
小室家に伝わる嘉永(かえい)5年(1852)に文澤が恩師の息子小室元貞に宛てた近況報告の手紙には、文澤が行った天然痘の予防接種(種痘(しゅとう))の様子が記されています。
手紙には、鳥羽藩主の生まれたばかりの次男(後の鳥羽藩7代目藩主稲垣長行(いながきながゆき))に種痘を行ったことや、伊勢志摩で4800人の子どもに種痘を行い、子どもたちの感染を防いだことが綴(つづ)られています。
当時種痘は、日本に伝わってまだ数年しか経っていない新しい医療行為であったため、種痘の効能を説き、多くの人々に接種を行った文澤の功績は大変なものでした。
若き日の文澤が師事した小室元長のもとでは、文澤をはじめ弟の安藤容敬(ようけい)や、日本で初めて帝王切開手術を成功させた岡部均平(きんぺい)、伊古田純堂(いこたじゅんどう)といった多くの医療人が輩出されました。安藤文澤が種痘の普及に功績を残した背景には、同郷で同世代の医療人の活躍が影響したのかもしれません。
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