■医道の師 小室元長(こむろげんちょう)から見た安藤文澤(あんどうぶんたく)
山間の阿諏訪村で育った安藤俊助(後の文澤)は、文政(ぶんせい)8年(1825)19歳の時、番匠(ばんじょう)村(現在のときがわ町)の医道の大家、小室家の門を叩き、医師を目指しました。
医師の家系である小室家は、俊助の入門当時、60代を迎えていた三代目小室元長が、村医者として近隣の村々を往診する傍(かたわ)ら、門人たちの面倒を見ていました。
筆まめだった元長は、日々の往診の記録とともに、育てていた農作物や村の出来事、そして門人たちとの交流などについて日記に記しており、そのなかには俊助にまつわる記述も散見されます。元長が文政9年12月から翌年8月にかけての出来事を記した『日記俗事雑談記事』には、女影(おなかげ)村への往診に俊助を同行させた記述があり、医療を実地で学ばせていたことが伺えます。
また、文月(ふづき)(旧暦7月)に俊助が重い流行病を患った際には、薬師如来に邪気退散を願うとともに、息子の元貞(げんてい)ともども阿諏訪村の安藤家に赴(おもむ)いて治療にあたっており、俊助を大事な弟子と認めていたことが分かります。
小室元長・元貞の元で医学を修めた文澤ですが、28歳を迎えた天保(てんぽう)5年(1834)に遊郭(ゆうかく)通いにより、許嫁(いいなずけ)と破談になってしまいます。この時のことを元長は、「愚敷事也(おろかしきことなり)」と日記に記し、文澤を大いに叱(しか)っていますが、元貞とともに奔走(ほんそう)し、文澤の一件を治めようと心を砕いていました。
文澤は元長のことを終生敬愛(しゅうせいけいあい)しており、元長が83歳を迎えた弘化(こうか)3年(1846)には、感謝の気持ちとして、雪の三峰山中(みつみねさんちゅう)に往診に赴(おもむ)く元長と文澤の姿を描いた絵を贈っています。
青年期より医者として、そして人としての成長を見守った小室元長は、安藤文澤にとっては人生の師とも呼べる存在だったのではないでしょうか。
※安藤文澤の幼名については、「俊介」と記す史料が多数確認されています。今回は小室元長から見た安藤文澤という視点から、元長が日記内で記している「俊助」の表記で、文澤の幼名を紹介しています。
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