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歴史散歩 第364回

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埼玉県毛呂山町

鎌倉街道と宿と河川

毛呂山町の国指定史跡「鎌倉街道上道(かみつみち)」は、街道遺跡の鎌倉街道と、街道沿いに展開した集落や古代の古墳の間に板碑(いたび)が立ち並ぶ霊場(れいじょう)が、現在まで一体として保存された中世の景観を想像することができる遺跡群です。
なかでも、集落跡である「堂山下(どうやました)遺跡」は、街道の往来(おうらい)や物流を助け、伝馬(てんま)などによる素早い情報伝達を行うために鎌倉街道沿いに整備された「宿(しゅく)」の一つ「苦林宿(にがばやしじゅく)」と考えられている遺跡です。
堂山下遺跡は、埼玉県立毛呂山特別支援学校と大類グラウンドの整備による発掘調査が行われ、街道沿いに建ち並ぶ建物跡や東海地方や九州、中国から持ち込まれた陶磁器(とうじき)や貴重な調理器具が発見されていて、街道沿いでの活発な物流の様子がうかがえます。
堂山下遺跡の大きな特徴は、越辺川に面した場所に形成されたことです。
中世では、大雨などにより増水し、たびたび川筋や川床の状態が変化する川に常設の橋を架(か)けておくことは技術的にも、経済的にも困難だったため、多くの川では浅瀬を探して渡るか、舟を出して渡りました。
そのため、川の増水時は、街道を通行することができなくなることも多く、一時滞在の場として宿は川のそばに多く設けられました。
鎌倉街道沿いの宿については、軍記物『曽我物語(そがものがたり)』に源頼朝が追鳥狩(おいとりがり)に行った際に関戸(せきど)宿(東京都多摩市)や久米川(くめがわ)宿(東京都東村山市)、入間川(いるまがわ)宿(狭山市)に逗留(とうりゅう)したことが記されています。
これらの宿は、それぞれ、多摩川、柳瀬川、入間川といった大きな河川のそばに設けられていて、宿の整備が河川の渡河点(とかてん)を中心に行われていたことがうかがえます。
また、川は合戦時に相手と対峙(たいじ)する場所となることも多くありました。そのため、川のそばの宿は、軍勢の宿営地(しゅくえいち)としても活用されました。
苦林宿も、貞治(じょうじ)2年(1363)の苦林野合戦で足利基氏(あしかがもとうじ)が宿営したことが南北朝時代の軍記物『源威集(げんいしゅう)』に記されているほか、後の時代でも度々軍勢が陣を敷いたことが記録されています。
鎌倉街道の交通を支え、地域の経済や軍事活動にも深く関わる「宿」は、中世の歴史を紐(ひも)解く上で、とても重要な場所といえます。

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